<Ignorance is bliss.>
大きな食堂のテーブルに腰掛けて、何冊も本を積み上げ一心不乱に目を通していたルックから離れて、珍しくヴォルフラムが一人で座っていた。
ユーリはコンラートと共に城外へ馬乗りに行ってしまい、出遅れたヴォルフラムはこうやって城の中で仕事を片付けているわけである。
「あらん、ヴォルフラム〜陛下はどこー?」
「は、母上っ!? いつお帰りになったのですか?」
「たった今よ〜あらルックもお元気そうねー、あらまあ、もうそんなに読んだの?」
親しげに話し掛けつつ肩に置いたツェリの手を無言で叩き落として、ルックは視線を本から動かさない。
「っ! お前っ!!」
「いいのよヴォルフラム、読書の邪魔をしてしまったのはわたくしですものね」
一気に殺気立った息子を宥め、それではごきげんようと言いながら立ち去ったツェリの姿が消えてから、怒気を孕んだ目でヴォルフラムはルックを睨みつけた。
「母上がお話されていたのに何だあの態度は!」
「…………」
「いくら客人だからと言って、礼儀というものがあるだろう礼儀が!」
声を荒げてもルックは意に介した様子は無く、淡々と文字を追う。
頭に血が上ったヴォルフラムは、机を回り込みルックの手にしていた本を払い落として彼の胸元を引っ掴んだ。
「お前は母上を侮辱したんだぞ!」
「……母上母上、煩いよ」
「なっ……」
白い頬を上気させ、頭に完全に血が回ったヴォルフラムは怒りに任せて言い放つ。
「お前のような無礼な者を産み落とした女がいるとはなっ!」
すっとルックの目が細まり、自分の胸元を掴んでいたヴォルフラムの手首を掴んで言う。
「余計なお世話だね」
「謝れっ――母上に謝れっ」
「嫌だ」
「お前は、母上を侮辱してそれでも謝らないと言うのかっ!?」
ヒステリックに響いたヴォルフラムの言葉に、ルックは思い切り顔を歪めて言い放つ。
「煩いっ!」
「貴様っ」
「――煩いっ!!」
ルックの細い腕が思い切りヴォルフラムを押す。
その程度では押されまいと余裕だったが、腕の力以外の力で後押しされ、ヴォルフラムは勢い良く床に転がる。
「!!」
寧ろ驚いたような顔をしたのはルックで、必死に受身を取り起き上がったヴォルフラムは、唖然として相手を見上げる。
両手で身体を抱きしめて、ルックはぎゅっと目を瞑っていた。
「る――」
「いらないいらないっ……親なんていらないっ」
「な、っ」
「……いらなかったんだ……でもほしかった……」
「ルック?」
独白のように呟いて、椅子の上に崩れ、微動だにしないルックに、起き上がったヴォルフラムは不審な視線を向ける。
気に入らない相手ではあるが、体の調子でもおかしくしたのだろうか。
青く冴えたルックの顔は、細かく震えていた。
「ルック……どうか、したのか?」
「……いないんだ」
視線をヴォルフラムに向けないまま、ルックはその金髪を僅かに揺らし答える。
「僕には、親は、いない」
「……死んだのか」
「違う!」
声を荒げて激しく首を振って、ようやっと視線を上げたルックの口元は歪み必死に笑っているようにも見えた。
「僕に、親はいないんだ……」
「親がいないって……離れ離れなのか? それとも」
「……」
少し落ち着いたのか、乱れた髪を掻きあげ溜息を吐いたルックは、自分の隣の椅子を指差してヴォルフラムに言う。
「……話すから、座りなよ」
「…………」
いつもの調子に戻ったらしいルックに少し安堵し、ヴォルフラムは椅子を引いて腰掛けた。
「紋章の事を話しただろ」
「ああ、魔法を使うための物だろう?」
「紋章にも色々種類があってね、特定の人間しか持つことのできない紋章もあるんだ。より多くの紋章の使い手を自分の元へ集めておくにはどうしたらいいと思う?」
「…………」
ヴォルフラムが眉を寄せると、くっとルックは小さく自嘲するように笑う。
「簡単さ、紋章の器を作ればいいわけ」
「どういうことだ」
「人の形をした紋章の器を作るんだ。僕とかね」
そう言って、視線を逸らしルックは両手を握り締めた。
「だから僕には、親はいない」
「……まさ、か」
「母親なんて存在は、知らないね」
ヴォルフラムは沈黙した。
生まれた時から母にも兄弟にも愛されて育ってきた自信のあるヴォルフラムには、理解できない世界だった。
「まあおかげでわがままプーに育たなくてすんだね」
「……プー言うなっ!」
***
……ルックが、実年齢倍のヴォルフを軽く手玉にとって(怖
いつからルックそんな怖い子に。
クロスのせいですかやはり……。
Ignorance is bliss.:無知は幸福