<失われた断片>
ないはずの川の音が、耳を潜り抜けた。
同じくないはずの闇が目の前を覆う。
それは一瞬だった。刹那と言ってもいいだろう。
わずかな時間の間に、たくさんの「何か」が耳を、目を、心の臓を貫いた。
『Are you ready?』
『独眼竜は、伊達じゃねぇ……!』
『野暮はなしだぜ』
くるくると目の前に翻るのは青。
自分より小さいはずなのに、誰より広い背中を知っている、追っていた。
『あなたの背中は』
嗚呼、約束だってした。誓った、幾度も幾度も。
『小十郎が』
守ると。
あの青を、蒼を、守ると決めた。
月に寄り添うと誓った。
『この小十郎』
「……やめてくれ」
頭の中で自分が誓う。
『あなたの右目になりましょう』
「なんだ……これは」
パキン、と自身が乖離する。
片倉小十郎は
かたくらこじゅうろうは
おれは、だれだ
翻る蒼、追う青。
雄たけび、静かな晩酌、競り合う刃、流れる雲。
知らないはずの記憶、知っているはずの記憶。
痛烈な記憶、鮮明な感情。
ぐるぐるぐると全てが小十郎の目の前を渦巻き、巡り、融解し融合し、青が蒼が、視界を埋め尽くそうとしたとき。
ひとつだけ、橙がひらめいた。
『右目のだーんな』
「……!」
誰かの名前を呼ぼうとして、それが喉で止まっている。
なぜだか涙腺が熱くなった。
どうしてかわからず、混乱する思考をなんとかかき集めようとして、失敗する。
ただただ、叫びたかった。吼えたかった。
「ぅ……」
衝動に負けてあと少しで口を開く、時だった。
「What's up?」
つい、と服の裾を引っ張って流暢な英語が投げかけられる。
声変わりを終えたばかりの声はかすれていたが、まっすぐに小十郎の耳へ入っていく。
だが小十郎の脳にひらめいた情報は多すぎて鮮明すぎて、何も外へ形にできぬ。
「Are you okay?」
視線を下へ向けると、眉を寄せて見上げてくる少年がいる。
右目を眼帯で覆っている、まだ十二になったばかりの。
それが誰だかわからない自分と了承している自分がいて、小十郎は混乱の極みにいた。
「……小十郎?」
しかし少年の不安にゆれる瞳を見た瞬間、混乱はあっけなく収束する。
「何でもありません、政宗様」
嗚呼、彼がやはり己の主であると。
「片倉小十郎」はそのとき確かに喜んだ。
タクシーに行き先を告げて主と自分の荷物を積み込んでから、小十郎は座席に腰掛け深く溜息を吐く。
政宗は小十郎の膝の上に頭をおいて寝入ってしまっていたので、久しぶりに見る故郷の景色を眺めながら、ようやく頭の中の整理を始めた。
もう混乱はなかった。記憶は一つにつながり、あれほど膨大にみえたイメージも繋げてみれば穴だらけだ。
そう、それは「記憶」だった。
荒唐無稽に思えるが、そうとしか考えられない。
いわゆる、前世というやつだろうか。
流れていく空港を見ながら小十郎は意気を吐いた。
ばかばかしい、信じられない。
しかしそれが自身の身に起きてしまえば、もう認めるしかなかった。
小十郎の「前世」でも彼は小十郎であった。
迷うことなく真っ直ぐに、主を見、支え、仰いでいた。
「……政宗様」
寝ている少年の髪を梳いて、小十郎はひっそりと笑う。
また出会った、己の主。
今度も守ってゆこう、右目となろう、再び。
そこまで誓ってから、ふと記憶のあいまいな部分に視線を向ける。
否、記憶はたいていがあいまいではあるのだけど、そこだけもやのかかったように不鮮明だ。
「……」
眉をひそめる。
あと少しで思い出せることのようなのに、思い出したくないという思いが強い。
しかしそれは小十郎の望むあり方ではなかったので、いささか荒く扉を開く。
次に、思い出そうとしたことを、深く悔いた。
「……!」
噴き出す血、真っ赤になる視界、確かな手ごたえ。
絶叫は己か誰か。肩に触れた手は血にまみれ、もう力もなく。
見上げてくる薄い色の瞳、折り重なり倒れる三人。
土は血を吸い、吸い出された分だけ主の頬は白く。
横たえた身体は重く、もう握られることのない武器は白々と輝き。
ゆっくりと武器をその手から離して。武将ではなくなった二人を横たえた。
指を絡ませるのに苦難しながらやり遂げて、最後の一人を担ぎ上げて。
その腕を自分の右腕に縛り付けて。
「……」
それは記憶の終わり。
前世の結末。
「…………っ」
溢れる涙を拭う事もせず、小十郎は無言で泣いた。
最期の記憶は
橙だった。