「……っく、ひっく、っく」
「どうした」
目を擦りながら見上げると、ぼうと光る蝋燭に照らされて、まばゆい金髪が見下ろしていた。
穏やかな声に再び尋ねられても、上手く説明できずにしゃくりを上げる。
「泣くなよ、男だろう」
頬を指で拭われて、その温かさにまた涙が出る。
外は、張り詰めたように寒く、兄弟のいる部屋に熱源はなかった。
「しょうがないな、おいで」
くすりと笑う声が聞こえて、ぎゅうと正面から抱きしめられる。
鼻先に触れる兄の服はごわごわしていて、冷えた鼻には痛かった。
厚い布越しだと伝わってくるはずの温かさはなかったけれど、滲んでくる涙を吸い取ってはくれる。
「シチリアの男は人前で泣いちゃいけない」
静かに諭される。
「泣き顔は見せるな。強くあれ、優しくあれ、誇り高くあれ」
回された腕に力がこめられる。
「お前は俺の弟だ――顔を上げて生きてゆけ」
囁かれた言葉に何度も何度も頷いて、ぐしゃぐしゃの顔を兄の胸に埋めて泣いた。
自分よりずっと広い体に強く抱かれて、泣いた。
<Mio caro fratello>
ざあざあと雨が降っている。それはまるで慟哭の声だ。
こんな雨の夜だっただろうか、いや、雨は降っていなかったかもしれない。だが確かにそれは夜だったように思う。昼間では彼の髪はあれほど綺麗に光らない。
「……なんで泣いていたんだか」
ちっともそれは覚えていない。記憶力はいい自負はあったが、本当にどうでもいいことだったのかもしれない。
あの時、兄に理由を話した覚えもない。
あの日から長い時がたったとは言いがたかったが、思えばあの日から一度も泣いていない。
もちろん、兄が泣いたのを見たはずもない。
彼は、そういうことはしなさそうだが。
きぃと扉がきしんで、金の色が現れた。
あの時と同じに、きらきら光っている。
「まだ起きていたのか」
琥珀の目を一度開いてから細める。彼にとっては予想外のことだったらしい。
「お帰り、兄貴」
外套を脱ぐ兄に布を手渡すと、ぐしゃぐしゃとそれで自分の頭を拭く。
乱れた金の髪はいつものようにふわりとしていなくて、頭の形に張り付くに留まる。
「どうだった?」
外套をかけながらさりげなく問うと、一瞬身体を止めてから次いで首を横に振る。
「交渉は決裂だ。まああのようなもの、交渉とも言わぬが」
自嘲の笑みをこぼした兄は、どっかとそこにあった椅子に腰掛ける。
「小作農人は使い捨てが利くと思われているのか」
「事実、利く。俺達にとって必要不可欠なファミリーでも、あいつらにとってはただのパーツでしかないというわけだ」
そこまで言って、唐突に兄は黙り込む。
何を言うべきか迷ったが、真っ直ぐ前を見たまま氷のようになっている兄の目の奥には炎がちらついている。暖炉の火の炎ではない。
炎――兄と自分が持つ、炎。
「……ああ、思い出した」
「なにをだ?」
「いや、小さい頃の話だ」
生まれながらにして兄弟は炎を持っていた。両親はそれに怯えるわけでもなく、かといって何か思った様子もなく、ただ事実と受け止めていたようだった。
兄の炎は瞳の奥にちらつく炎だったが、弟の炎は質が違った。
はじめて手から炎を出した時、喜んだのか恐怖したのか記憶にはない。だがそれは異質であり、異質の子供は酷く、疎外される。
それが悲しくて泣いていたのだ。
「ああ、泣き虫だったなお前は」
くすりと笑った兄は、相変わらず妙に勘がいい。
「もう違う」
「どうだか。俺のいないところで泣くなよ?」
「……」
くすくすと笑う兄の目の奥に、炎は宿ったままだ。
「……兄貴」
腰掛けない弟を不信に思ったのか、兄は眼を眇めて見上げてくる。
「スープが残っているならほしい」
「何か、俺に隠しているだろう」
「何をお前に隠すんだ、弟よ」
即座に切り返されて、臍をかむ。口でこの兄に勝てるわけがないのに、真正面から聞いてどうなるというのか。
何を隠しているかは分からなかったが、何かを隠しているのはわかった。
他ならぬ兄なのだ。たった二人の兄弟なのだ。両親が死んでから支えあって生きてきた兄弟なのだ。
ずっと見てきたのだ。
「父さんと母さんが死んでから一年――何をしている?」
「小作人の権利を認めさせるように奔走している」
「嘘だ。何か別のことをしている。ゲールと」
幼馴染の名前を出すと、兄は眉を僅かに動かす。その表情の変化は上手く取り繕ったつもりだったかもしれないが、弟に隠せるほどのものではない。
「兄貴、何をしている」
「お前は知らなくていい」
「俺はもう子供じゃない」
「そういうところが子供だ」
「……どうしても言わないか」
「言わない」
何かをしていることは否定せずに、そうとだけ兄は言った。
そう言った時の兄の目が青く冷えていたので、弟は拳を握る。
ずっと見てきた。
そしてわかっていた。
「辛いなら、言え」
「……なんだと?」
冷えた瞳が向けられる。
無意識に体が震えるのを意思の力でねじ込めた。
「俺は弟だ。兄貴には劣る。まだ大人ではなくて、やれないこともたくさんある――だが」
何か助けになりたいとずっと思っていた。広い背中を眺めているのはもうごめんだ。
「俺は兄貴に恥じない、シチリアに恥じない男になる。だから、何か」
「お前は俺の家族だ」
ぴしゃりと言われる。座ったままの兄はゆっくりと弟を見据えた。
強大な圧力を感じる。それに気圧されぬよう、弟は足に力をこめる。
ここで退いては、意味がない。
兄に逆らった意味がない。
「俺はお前を守る。それが男というものだ。家長は俺だ、お前は庇護されていろ」
「もうそんな年じゃない!」
「子供が寝言をほざくな」
「兄貴だって子供だろうが!」
「俺はお前を守る義務がある!
」
バンッと兄が机を叩いた音に、少しだけ身を竦める。
そのまま立ち上がって睨まれて、反射的に謝りそうになった。
「……っ」
「俺はお前を、この村を守る。そのためならなんだってする!」
「だから、俺も――」
「お前に何が分かる! 村を出たこともないくせに! 俺達がどんな扱いを受けているか本当に分かっているのか!?」
「だからっ……分からないが、俺はっ……」
「分からないなら黙っていろ!! お前は俺に庇護されていればいい!」
叫んだ兄は、本当に激昂していた。
珍しい……そうでもないかもしれない。彼は小さい頃は、よく感情を表に出す性質であったはずだから。
そこで気が付く。やっと気が付いた。
「だが」
「だがもしかしもない! 俺の言う事を――」
「誰が、兄貴を守る?」
「…………は?」
目を見開いた兄に一歩近づいて、まだ濡れている髪に触れる。色は暖かそうなのに、とても冷たい。
そのまま耳元を包むと、冷えた耳の形が分かる。少し髪を持ち上げると、真っ赤になった耳朶が露になる。
「耳、冷たかっただろう」
「な、な……」
ゆっくり触れると、びくりと肩をすくめる。
「……そんな事も、言わない。俺はファミリーなのに、泣き言一つこぼさないのか」
「お……お前は、弟だ……、俺が、守るべき……」
しどろもどろになった兄を、見下ろす。
そうだ、もう、見下ろしている。
本当はとっくに気が付いていたのだ。
「昔、泣いた。兄貴の腕の中で」
耳朶に触れていた手を頭の後ろへ滑らせながら、もう一歩距離を縮める。
「俺達はファミリーだ。血を分けた兄弟だ。俺は兄貴の力になりたい。一緒に、守っていきたい」
反対側の手も伸ばして、髪から落ちる雫で濡れている肩を引き寄せる。
ふらりとよろめいた兄の身体を、両手で受け止めて抱きしめた。
「泣いていい。ここでだけ、顔を誰にも見せないで」
「ふ……ざ、ける、な!」
「昔、泣かせてもらった。恩を返すだけだ」
「お、とうと、のくせに、生意気を、言うっ……!」
くぐもった声が肩から聞こえてくる。抱きしめている身体が小刻みに震えて、それを少しでも鎮めようと背中をなでる。
「強くあれ、優しくあれ、誇り高くあれ――兄貴が教えてくれたことだ。俺は誇り高く、兄貴と共に生きていく。そう決めた」
「おま、えは――」
かすれた声が聞こえたが、その後の言葉はくぐもりすぎていて聞き取れなかった。
最悪だとか最高だとか、でかくなりすぎだとか人の誠意を無駄にしやがってとか、他にも罵り言葉もたくさん聞こえたが。
聞こえたが、それは全部泣き声と一緒だったので、どこかで満足して腕に力をこめた。
***
セコプリだヨ。
セコーンドの本名が出てこないから、どうしようもないんだよ!!
ちくしょうジョットめ!