<継承>
――貴様はどうする?
その問いに、綱吉は答えられなかった。
即答するべき問いだったのかもしれない。なぜならジョットは答えない綱吉に、なぜだか哀しく微笑んだからだ。
その笑みは、即答してほしかったように見えたのだ。
(でも俺は……わかんないよ)
戻りたいかと聞かれれば、確かに戻りたい。
学校の喧騒、友人との他愛のない会話、クラスメイトの少女の温かな笑顔。
宿題の量に文句を言って、居眠りして怒られて、休み時間はギリギリまで外にいてダッシュで戻って。
そんな事が全て、懐かしい。戻りたい。もう一度。
(けど……けど、けれど!)
賑やかな学校を思い出すと、いつも反対側にこの部屋がある。
よく笑う少年に小さな赤ん坊、優しい言葉をかけてくれる人たち。
そして「彼」がいる。静かな部屋、ソファーに深く腰をおろして、長い足を組んでいる。
大体額に皺がよって、サイドテーブルにはきつめの酒を置いている。
或いはキッチンに立って何かを作っていて、そこから漂ってくる香りはいつも綱吉をうっとりとさせるのだ。
訓練から戻ってくると、温かな飲み物を差し出してくれて。
眠る時は……緩やかに束縛してくる腕と、少し体温が低い身体。瞼を下ろすと日中より幼い顔立ちで、いつも綱吉を安堵させる。
時々乱暴な言葉で、戦う時は肌が粟立つほど凄惨な笑みを浮かべるくせに。
それなのに、綱吉に触る時は、泣きたくなるほど優しい。
二つのどちらが大事かと聞かれて、綱吉は選べなかったのだ。
「彼」の傍にいるには、このままここにいるしかない。日常に戻るなら「彼」から離れるしかない。
ジョットはそう言う。綱吉もそう思う。
けれど。
「どうすりゃ……いいんだよっ……!」
呟いたって誰も答えてはくれない。そんな事分かっている。
そしてジョットが部屋を立ち去ってからも、ずっと、机の上に置かれた指輪を見ながら、ずっと堂々巡りになっている思考が一つの答えになっている。
それも、綱吉はわかっていた。
「だ、って……だって、やだ、よぉ」
ソファーに座って膝を抱え込み、綱吉は涙声で呟く。誰もいない部屋で。
「いやだよ……XANXUSと離れるなんて、やだよ……」
涙が落ちても誰も拭ってくれなくて、服に手に流れていくだけだ。
泣き続ける綱吉に、誰が何かを言ってくれるわけもない。ここには、誰もいないのだから。
迷うことはないはずの選択だ。
獄寺と山本を巻き込みたくなんかない。XANXUSが怪我をしたのもそのせいだという。
戦いなんて嫌いだ。人を傷つけたくなんかない。あんな「戦争」はもう沢山だ。
だから、簡単なはずなのだ。
綱吉が学校に、あの世界に戻れば、解決するはずなのだ。
それなのに、イヤだと心が叫ぶ。一番深いところから、大きな声で絶叫する。
戻りたくないと叫ぶ。誰も傷つけたくないのにと叫ぶ声を掻き消すほど大きな声で、音で、熱で、意思で。
「っあ……あ、あ、あ」
目を見開いて、綱吉は小さな声で嗚咽を漏らす。
答えは決まっているはずなのに。
それはきっと、自分の心を壊すだろう。
「ぁ……あ、ぅ」
だけど決めなくてはいけない。言わなくてはいけない。
答えを、出さなくてはいけない。
けれど、まだ出せない。
「…………」
泣き疲れて、考えることにも疲れて、綱吉はゆっくりと腰を上げる。そういえばオフラインしてから何も飲み食いしていないので、倒れる前に何か口に入れなければいけない。
ぺたりぺたりと歩いて台所へ行き、冷蔵庫を開く。中に甘いものが何かないだろうかと視線をさ迷わせて、一点で止まった。
「あ……」
お皿に盛られておいてあったのは、チョコレートだった。綱吉の大好きな、チョコレート。
もちろんXANXUSの手製だ、そんなの見れば分かる。
少し背伸びしてチョコレートの皿を取り出す。綺麗に並べられたそれを、一つだけつまんで口に入れる。
ほろりと広がる苦味に甘味。舌をくすぐって喉へ降りていく爽やかな柑橘の味。
昨日はなかった。ということは今日、作ってくれていたということだ。彼は何を思って作ってくれたのだろう、何を思って、獄寺と山本を助けに走ったのだろう。
彼に、なんて言えばいいのだろうか。どんな顔で、会いに行けばいいのだろうか。
あんなに流したはずの涙が零れて、綱吉はチョコレートの最後の欠片を飲み込んだ。
いい加減涙が枯れるほど泣いたおかげなのか、糖分のおかげなのか、その後飲んだ水のおかげなのか。
奇妙なほど澄み切った思考で普段は飲まない冷たい牛乳をゆっくり口に運びながら、綱吉は一呼吸する。
一呼吸して、目を閉じて電脳に入る。
「リボーン」
名前を呼ばれたプログラムは、即座にその場に展開した。
「なんだダメツナ」
「俺は、強くなれる?」
「……強さを求めるのか。元の生活に戻れるって言われたんだろうが」
綱吉は首を横に振る。もう決めた。
「俺は選ぶよ」
たくさんの人に謝らなくてはいけない。
後悔もするだろう。罪も背負うだろう。
けれど。
「俺はダメツナだけど、ダメツナだから、守りたいものがあるんだ」
こんな俺に、優しくしてくれた人。
守ってくれた人。
けれどそんなもんじゃない。本当に守りたいのはそんなことじゃない。
俺は――
「後悔すると思う。間違っていることかもしれない。だけど、俺は守りたい人がいるんだ」
『……その言葉に、嘘はないか、デーチモ』
頭上から声が響く。思わず空を仰いだ綱吉の目の前に、すうっとその形が構築される。
きらきら光る粒子をまとわり付かせて、ジョットがそこに立っていた。
「恐れず進むか」
「……怖いよ。不安だし、迷う。でも、俺は決めた」
震える声でも綱吉は言い切る。それにジョットは目を細めた。
「では、一つだけ教えよう」
「え?」
いつのまにかリボーンがいない。それに気が付いたがどうしようもなかった。
ここには二人しかいない。
プリーモ、初代、アルコバレーノたちの思い出を持つ人。
「この力は強大だ、「戦争」では絶対の力を誇る。それが我らボンゴレの強さの基盤だ」
だが、とジョットは続ける。
彼の纏う空気が、ひんやりと冷えだす。電脳にいるはずなのに、それを感じる。
そして彼の言葉が、いっそ哀れみすら帯びたものになった。
「三代目は、いない」
「……」
「四代目も、五代目も。九代目まで――全員、死んでいる。この力を得た者は、誰しも短命だ」
俺だけだ、とジョットは微笑む。
「この力を揮って生き延びているのは、俺だけだ。セコーンドには使わせていないからな」
どうする? と尋ねる。
それは質問の形をしていたけど、違うものだ。
短命? 死んでいる? 誰しも?
三から九まで……全員?
そしてジョットの言い分を信じるのなら、セコーンドも力を使えば同じ末路になるのだろう。
ということは――ということは、無事なのは、プリーモだけだ。
死ぬ?
力を得たら――それを使えば……死ぬ、のか。
「どうする、綱吉。俺はお前がどの選択をしたとしても、責めるつもりなど毛頭ない」
好きに迷え、と言われて綱吉の視界に映っているはずのジョットが他の人影になった。
ああ、そうだ、迷ってなんかいられない。
「継承する」
宣言した声は震えなかった。
それは綱吉にとっては当然の、唯一の選択だった。
「継承する、で良いのだな? 理由は?」
「XANXUSや皆を守りたい、だと思ってた。けど違うんだ。俺は、俺の、ダメツナな俺の戻ってくる場所を守るんだ」
「戻る場所……だと?」
「XANXUS、獄寺君、山本、リボーン、ディーノさん、学校のみんな、ヴァリアーのみんな、この部屋。俺の居場所を、守るんだ。もう二度と、誰にも、奪われない!」
父さんと母さんは、死んだ。殺された。
俺の居場所は一度奪われた。
だからもう――だから、もう、奪われない!
「……貴様の覚悟、しかと受け取った」
微笑んだジョットが再び粒子と消える。
『力を与える、Decimo』
降り注いだ声に、綱吉は目を閉じる。
『ボンゴレの証をここに継承する』
それは溢れそうなほどの光、だった。
閉じた瞼から、零れていきそうなぐらいの。
オフラインになり、綱吉は瞼を押し上げる。
指先までちりちりとする感覚ははじめてのものだったが、不安よりは別の焦りが先走った。
「いか、なきゃ」
立ち上がろうとしてよろける。トンと肩を押されるとあっけなくソファーの上にひっくり返った。
「無理をするな」
「ジョ、ット」
電脳かと瞬きしたが、見慣れた部屋でしかない。ソファーの感触もホンモノだ。
このジョットが映像なのか? そう思って手を伸ばしたが、突き抜けることなくきちんと指が彼の身体に触れる。
「なに、して……?」
「継承は終わった」
「うん」
何かが変わったのが分かる。それは具体的に言葉にできるようなものではないし、しようとも思わない。
だが何かが「変わった」のはわかる。
「行かなきゃ。XANXUSに、会いにに行かなきゃ」
もう一度立ち上がろうとする。今度はちゃんと足で立てた。
「ジョット、XANXUSはどこにいるの」
「そんなにアレは大事か?」
不思議そうな琥珀の目に見つめられて、綱吉は瞬きをする。
「うん」
「なぜだ?」
アレのどこがいいのだ、と不満そうなジョットに、いったい彼は何がそんなに気に入らないのだろうかと綱吉は首をかしげる。
XANXUSはあんなにセコーンドに似ているのに、どうしてジョットはそんな事を不思議がるのだろう?