「―――――」
扉越しに届いた小さな声に、廊下をうろうろといたたまれないように歩き回っていた骸は立ち止まる。
まだ閉じられたままの扉を凝視していると、やがて薄い緑色の長い上着を着た女性が出てきて、じっと見ている骸に気付くと、マスクを取ってにこりと微笑んだ。
「おめでとうございます、男の子ですよ」
「……そう、ですか」
ありがとうございますと気の抜けた声で呟いて、骸は片手で顔を覆って俯く。
女性は何かを取りに行ったのか、すでに廊下の向こうに消えていた。
張り詰めた何かが切れるように長い長い息を吐く。
それとともに、手のひらを濡らす温かい水を感じた。
<白の舞う日>
その日、つなはいつもまして気もそぞろだった。
今日が学校が休みでよかったと思う、学校に行っていてもまともに授業を受けていたか分からない。
気が紛れるかと教科書とノートを開いてみたもののペンが動く事はなく、リボーンも最初こそなんやかんやと言っていたが、もう諦めたのか、銃の手入れをしている。
気を逸らそうとするのはつなも諦めて、携帯電話を片手にベッドに転がった。
表示画面はまだ着信を告げない。
そこにかかってくるはずの一本を、つなは朝から……訂正、昨日の夕方から今か今かと待ち望んでいた。
「まだかなぁ……」
「うるせーぞ、何回目だそれ」
「だって気になるんだもんー!」
じたじたと足をばたつかせて携帯を握り締める。
いっそ行ってしまおうか。
じれったさに耐え切れなくなってきた頃、ぱ、と液晶の部分が光った。
着信を告げるコールが一つ鳴るかどうかのところでつなは通話ボタンを押し、上半身を跳ね起こす。
「もしもし骸!?」
『…………』
勢い込んだつなは、予想していた喜びの叫びが返ってこなくて不審に思った。
画面の確認もしなかったが、もしかして違う人からの着信だったのだろうか。
そう思って画面に表示されている文字を確認すれば、間違いなく六道骸と表示されている。
パイナップルの絵と共に出ている名前は間違うはずがない。
「おーい、骸ー?」
『……聞こえてますよ。いきなり鬼気迫る声がして驚いただけです』
「あ、そなの」
で、どうなの、と謝るでもなく言うつなに、骸は一呼吸おいて電話口で盛大に叫んだ。
『生まれました! 男の子です!』
「おめでとー!!」
普段なら煩いというような声量でも今日この時は気にならない、携帯を持っていなかったら拍手していたところだ。
つなはベッドの上に立ち上がって、ガッツポーズをする。
骸の声はリボーンにも聞こえたようで、銃の手入れをしている手を止めて、ちらりとこちらを見た。
恭弥が産気付いたのが昨日の夕方だった。
骸がつきそって病院に行ってから半日あまり、つなはそれはもう気が気じゃなかった。
自分の周りであった最初の出産に緊張していたのだ。
つな自身の事ではなくとも、恭弥も骸もファミリーなのだから緊張もする。
「もう見た!? どうだった? ヘタとかついてないよね」
『それはもう可愛らしくて……あと髪の毛なんてまだほとんどないんですから分かりませんよ。ていうかヘタ呼ばわりしないでくださいと何度言ったら』
「あーあーはいはい。で、恭弥さんは?」
『元気ですよ』
「そかー」
よかったよかった、とつなは胸をなでおろす。
母子共に健康ならいう事はない。
さすがに今日は疲れているだろうから、明日にはおめでとうと言うために病院に行こう、どうせなら直接言いたい、というか赤ちゃんの顔が見たい。
喜びに浸っているつなの耳に、骸が小さく呼びかけた。
『ねぇつな君』
「ん? なに? 明日皆と一緒にそっちに行くから恭弥さんにも――」
『僕はこんなに幸せでいいんでしょうか』
「骸?」
『とても小さいんです、愛しいと思うんです、幸せだと感じるんです。だけど同時に不安なんです』
電話越しにぽつぽつと話す骸の声は沈んでいる。
先程まで浮かれきっていたのと同一人物なのか疑いたくなるほどに。
『僕は「こんな」存在で、罪人で、今だって敵はそこらじゅうにいます。あれだけ散々人の不幸を願っておいて、自分が幸せになると壊れるのが恐ろしくなるんです』
「……それ、恭弥さんには」
『昔、一度』
「なんて言ってた?」
『鼻で笑われました』
ぶ、と思わず吹いてしまった。
真面目に話してるんです、と骸が電話口で言うが、笑いがとめられない。
なんて恭弥さんらしい。
「いいんじゃないのそれで。お前がそう思えるようになったってだけでも十分進歩だと思うよ」
誰だって自分の幸せが壊れるのは怖い。
つなだって、マフィアのボスになって、時に人を殺す、幸せを奪う、だけど自分の幸せを奪われたくはない。
奪われたくないから戦うのだ。
大切な人を守りたい、それがなければマフィアなんてやらないだろうし、なろうとも思わなかった。
「お前が昔やった事は忘れるな。その上で幸せになってみろよ」
壊したくないと思うなら全力で守ってみろ。
それで自分のした事を噛み締めて、それでも腕の中のものを愛しいと思えるのなら人間として上出来だ。
『つな君……』
「それにさぁ、お前がどうにかしなくたって、恭弥さんがどうにかするんじゃない?」
『……』
「じゃ、また明日皆と行くからね」
これ以上弱音を吐くようならパイナップル農園に埋めてやろう。
子供には、父親はパイナップルの星になったとでも教えればいい。
通話を切って、つなは苦笑めいた溜息をついた。
「生まれたか」
「うん、明日皆で見に行こうよ。リボーンも行くでしょ?」
「ま、新しいファミリーだしな」
「どんな子かなぁ……」
皆にも連絡しなくっちゃ、と携帯の短縮を押してふと視線をあげれば、窓ごしに白いものがちらついていた。
「あ、雪だ」
『つなか』
「あ、ザンザスー?」
『どうした』
「恭弥さんがね、生まれたって」
『……ああ、雲の奴か』
「男の子だって!」
『ほう』
明日見てくるんだよ、と言えば、よかったなと返ってくる。
ザンザスは今イタリアにいるから一緒に見に行く事はできないが、今度写真を送ろうと思う。
きっと可愛いに違いない。
「俺も早く子供ほしいなー」
そう呟いてみれば、電話口のザンザスは沈黙した。
ベッドの上には恭弥と、小さな赤子が並んで寝ている。
まだしわくちゃな顔はどっちに似ているかもわからない。
そっと指を伸ばしてみれば、小さな手のひらに驚くほどの力で握りしめられた。
「ありがとうございます、恭弥」
「礼を言われる筋合いなんてないけど」
相変わらず素気ない恭弥の手に自分の手を重ねて骸は誓う。
「あなた達は僕が絶対に守ってみせます」
「必要ないよ」
「守ります、守らせてください、守りたいんです」
ぐっと力を込めて言えば、黒い瞳とかち合う。
すこし疲れを覗かせる、それでも強い瞳が僅かに触れて。
一瞬だけ、柔らかな色を帯びた。
「……好きにすれば」
「好きにします」
にっこり笑って骸は小さな手を揺らす。
まだ目も開かない、しわだらけの顔が、それでも愛しくてたまらない。
「名前決めないとですね」
「誰が勝手に決めていいって言った?」
「じゃあ二人で考えましょう」
「……」
そうだね、と。
目を細めて呟く恭弥は半分眠りかけていて、閉じかけた瞼にキスを落として骸はもう一度、Grazie、と祈るように呟いた。
その子供の名前は雪加。
白く小さな雪が降る日に加わった小さな命。
***
子供達の中での最年長。
おそらく出生ネタを書いてもらえる唯一の子(初子の特権