<そうして彼らは2>



すり抜けるようにして入り込んだ病棟は、ひたすらに静かだった。
シャマルが所有しているらしい病院は、ぱっと見普通の病院で、病棟もそれなりに多い。
けれどここに寝泊りするのは全て「裏」の人間ばかりで、今この病棟にいるのははやとだけなのだろうと、山本は半ば確信しながら廊下を走っていた。

扉が開けられたままの、患者のいない部屋を通り過ぎて、二階、三階と階段を駆け上がる。
普段の練習でもこんなに全力疾走した事はないかもしれない。
三階の端の部屋に、唯一閉じられたドアを見つけた時には、山本の息は完全に上がっていた。

ぴたりと閉じられた白いドアが、とてつもなく重く感じられた。
からからな喉を鳴らして渇きを誤魔化して、山本は取っ手に手をかける。
開けるのも躊躇われて、けれど開けずにはいられなくて、ぐっと力を込めてドアをスライドさせた。



室内にひとつだけ置かれたベッドに、はやとは寝ていた。
山本はふらふらと足を踏み出して、ベッドの横に立ち尽くす。
薄い布団をかけられた胸は規則正しく動いていて、眠っている表情は穏やかだ。
けれど布団から覗く腕には白い包帯が巻かれていて、小さな傷が顔や首筋にもいくつも赤い線を残している。

「はや、と」
彼女はまだ目を覚ましていなかった。
だからきっと、知らないのだろう。

山本は知らなかった、そこに命がいた事を。
はやとはまだ知らない、そこにもう命がない事を。


膝が落ちて、山本は床に膝をついた。
包帯に覆われていない方の手にをそっと握ると、自分の体温よりも随分と低い温度を返してくる。
「はやと」
名前を呼んでも彼女は何も返さない。
面倒くさそうに「なんだよ」と言いながらも、目が嬉しそうに笑っているのを見るのが好きだった。
起きて現実を知ってからも、同じ反応を返してくれるだろうか。



本当は、はやとが自分が他の女性と遊んでいるのを嫌っている事くらい気付いていた。
いつだって泣きそうな顔をして、それでも文句ひとつ、我侭ひとつ零さない。
泣いて縋ってほしかったわけじゃない。
ただ少しだけはやとにわがままを言ってほしかっただけだった。
なんとなく察する事はできても、口に出して主張してほしかったのだ。
もしはやとが「嫌だ」とでも自分に向けて零したのなら、二度と他の女性と遊ぶつもりもなかった。
だけど、はやとは一度も山本に、不満を言ったりはしなかった。
……今言ったところで、言い訳にもならない、酷い責任転嫁にしかならないけれど。

ただ、はやと いつだって全てを自分の中に押し込めて、ちっともこちらに押し付けてくれない。
それだけが不満で、どれだけ身勝手に振る舞ってみせても、はやとは何も言わなかった。
どうしてだろうといつだって不思議に思っていたけれど、シャマルが言ったように、そんな事を言ったら捨てられるとでも思っていたんだろうか。
捨てられやしないかとびくびくしていたのは自分の方だったのに。

だけど、はやとは何も言わなかった。
そして今がある。



子どもができた事も、はやとの決断も、山本は知らなかった。
教えてほしかった。
それも身勝手な願いかもしれない。
はやとが苦しそうにしているのを知っていて、それでも無視し続けていた。
その影でどれだけ傷ついて辛い思いをしているのかに気付けずに。

今回の事だって、シャマルから連絡をもらわなければ、ずっと気付かないままだったに違いなかった。
はやとはこの事すらも一人で抱えて、そして何も知らないままに、山本はやとを傷つけ続けていただろう。


「ごめん」
ぱた、とシーツに丸くシミができる。
触れる手だけは優しく、反対側の手は血が滲むほどにきつく握り締めて、山本は声を絞り出した。
「ごめん……」
謝って済む事ではないけれど、持っている語彙の中ではそれ以外に言葉が浮かばなかった。

目を覚ました彼女は何を言うだろうか。
この事実を知ったら泣くだろうか。
自分を許してくれるだろうか。

許してくれなかったとしても、どうしても手放したくなかった。
みっともなく泣いて縋ってでも。
それだけ想っている相手をこれだけ傷つけて、今まで自分は何を見て何をしていたのだろう。

「……ごめん、な」



守りたかったはずの存在と。
知る事すら叶わなかった命への謝罪を。