<KISS>




がらがらがらと扉が開いたので、そちらを見ずにおかえり、とだけ呟いた。
「ただいまです……ねえ、恭弥君」
「なに」
名前を呼ばれて顔を上げると、にこにこ笑顔の骸がいた。
どことなくいたたまれなくなって、視線を下に向けて答えると、なんでもないですと甘い声で笑う。
おそらくとろけるような顔をしているに違いなかった。

「……早かったね」
手元を見つつ言うと、そうなんですよね、と着ている服の胸元をつまんでぱたぱたさせながら答える。
「結構、体力戻ってきましたよ」
「そう」
「まだ走るのは厳しそうですけど、日常生活に支障はないです」
その言葉を聞いて恭弥は顔を上げる。



六道骸は、一ヶ月前に「復讐者」の檻から出た。
許されたわけではない。
だけど彼は外に出た。
生身の体を取り戻した。
そして今は、一応普通の生活をしている。
復讐者とかいう者達との問題は――ボンゴレでなんとかすると、つなの言だった。


問題となったのは数年間に及ぶ水槽内での拘束だ。
精神はひょいひょい外に飛んでいたから健全そのものだったものの、無重力下に近い状況への長期にわたる滞在によって筋力は極端に低下し、外に出た時の骸はしゃべるのも一苦労だった。

ボンゴレの誇る集中治療を受けることほぼ四週間。
ようやくなんとか生活できるようになった骸は、二日前にようやく並盛へと戻って――というより、やってきた。

「制服、明日届くって」
「ありがとうございます」
中学時代に来ていた黒耀中の制服を着た骸が、少し短くなった袖を引っ張る。
あんな状況にあっても、人の体というものは成長できるらしかった。
制服も幻覚の一部だったし他の服は持っていない。
クロームのものならあったが、それは女物だったし。

笑顔で立っていた骸の額に浮かんだ汗に、恭弥は目を細める。
骸は恭弥が持たせた書類を持って、職員室へ行って戻ってきただけだ。
それなのに汗をかいているということは、やはり体はまだまだ健康には程遠いのだろう。

「立ってるとうっとうしい」
「あ、はい」
恭弥の言葉に、骸は机の近くにあった椅子を引っ張って腰掛ける。
その気配を感じながら、恭弥は目の前の書類に視線を戻した。
夏休み中に片づけなければいけないことはまだあって、これもその残りだ。
後わずかな休みの間に終わらせなくては。

「恭弥、君」
声より先に吐息があって、気がついたら顔が目の前にあって、慌てて恭弥は手元の紙を持ち上げて彼の顔を隠すように二人の間に挟んだ。
紙越しに見える彼の顔は嫌味なぐらい端整で、それは有幻覚の時と変わらない。
だけれども柔らかい息とか汗の臭いとかが、しつこいぐらいにリアルだった。
「顔近いよ」
「……あの、結構傷つくんですけど」
唇を尖らせた骸に、拒否をこめて視線をそらす。

「ちゅう、したいです」
「……朝したよ」
切り返すと、じわっと目に涙まで浮かべて力説してきた。
「今したいです!」
「やだ」

紙を間に挟んだまま、恭弥は顔をそらす。
数秒間そのまま待ってみたが、何も言わないし動きもしない。
しゅんとなった骸はそのまま引き下がることにした。
無理強いをして嫌われたいわけじゃない。
「わかりました……ごめんなさい」
みっともなく浮かんだ涙を拭こうと手を上げかけていると、紙越しに恭弥が視線を合わせる。
きょとんとして止まった骸に、頬を赤くした恭弥は言った。

「ぼ、僕からするならいいよ!」
「え」
目を丸くした骸の頭の中では、恭弥の衝撃的なセリフが延々ループされている。

僕からするならいいよ僕からするならいいよ僕からするなら……

「恭弥君からちゅう……」
視線が定まらないまま呟いた骸は、その瞬間を思い描く。
少し頬を染めて、骸にゆっくり近づく恭弥の顔。
伏せた睫は長くて、いつも切れ長の目は閉じられて印象が柔らかくなって。
艶やかな唇から、かすかに息がこぼれて。
見かけより柔らかい髪が骸の鼻をくすぐって……
「……」


耳まで真っ赤に染まった骸は、おずおずと恭弥を見る。
視線があった恭弥も、耳も首も赤くしていた。
「ちょっと、何その顔」
「だ、だって……」
指を組み合わせてもじもじする骸に、白い肌を朱に染めた恭弥は目に見えて動揺する。
自分の言葉に照れているのか骸の照れに便乗しているのかは定かではないけれど、とにかく照れて動揺しているのは確からしい。
「いいから目を閉じなよ!」
ええいもう、といわんばかりに言われて。
「は、はい」
答えて、目を閉じた。




恭弥は無防備に目を瞑った骸の顔を、思わず見つめていた。
そういえば、恭弥からこの行為に及んだことはなかった――当たり前だけれど。

彼がいつもしているように、そっと頬に手を当てる。
びくりと震えた骸がかわいくて、愛しくて、笑った。


「骸」


名前を呼ぶと、漣のように笑いが広がった。



 

 

 



***
某所に献上した品。