<二人の時間 独りの時間>
疲れた体は眠いと訴えていたが、意識が変に高ぶってしまっていて眠れない。
なにより、体にべとつく感触は、一度気付いてしまうとどうしようもなかった。
少し視線をあげれば、薄暗さに慣れた視界に山本の幸せそうな寝顔が見える。
腰に回された腕はおそらく無意識なのだろう。
少しもったいないと思ったけれど、未練がましい思いを振り切ってそっと腕をどける。
起こさないようにゆっくりと体を離して、ベッドから降りるようにして布団から抜け出した。
はやとがだるい体を引きずってシャワーを浴びて戻ってきても、山本は目覚めた様子もなくベッドの中で熟睡していた。
時計を見ると七時少し過ぎたあたり。
最後に時計を見た時には夜の十時を回っていたから、夕方ということはないだろう。
ブラインドを下げたままの窓の外から微かな水音が響いていて、外はたぶん雨だった。
指で隙間を空けて確認すると、水滴が窓についている。
曇った窓についた水滴はぱたぱたと増えたりくっついたり流れたりしているから、まだ止んでいないのだろう。
時折車が水を跳ね上げる音もするから、かなりの量が降っているようだ。
今日は土曜日だから授業はないが、当然のように野球部の練習はある。
山本は昨夜、雨が降ったら午前中は休みになると言っていたから、まだ起こさなくていいだろう。
昼からなら、あと三時間くらい寝かして、それから家に一度戻っても十分に間に合う。
梅雨だからなかなか思い切り外で練習ができないのだとぼやいていた。
中のロードワークでできる事にも限界があるし、雨天練習をするにしてもあまりに悪天候だとそれもままならない。
ミーティングにも飽き飽きしているから、太陽が恋しいと、眠る前にはやとを抱きしめて髪に顔をうずめながら山本は呟いていた。
だけど、山本には悪いと思うけれど、はやとは雨が好きだった。
雨の日は練習が短くなったりなくなったりするから、その分はやとのところにいる時間が長くなる。
だからといって二人でどこかに行ったりする事はなかったけれど、こうして何もない時間が長くなるのが少し、嬉しかった。
抱き合って熱を与えられるのも嫌いではないけれど、そういうのよりもただ手を握ったり、ぎゅっと抱きしめてもらったり、同じ空間にいられるだけでも満足する……というか、ただそうしてほしいと思う事もある。
だけどそれを口にした事はない。
言ったらきっと面倒そうな顔をされるだろうから。
言って嫌われるくらいなら、何も言わない方がいい。
我侭をきいてくれない事よりも、嫌われる方がずっと痛いから。
ブラインドを上げると、少しだけ部屋の中が明るくなる。
けれど外も暗いから多少部屋の中が見やすくなったくらいだ。
だいたいの輪郭しかわからなかったのが、寝顔の陰陽がわかるようになったくらい。
山本は深く眠っているのか、多少明るくなったところで眉ひとつ顰める事なく寝息を立てていた。
上はTシャツ、下は下着だけの恰好で、はやとはそっとベッドに乗り上げる。
ぺたりと布団の上に座りこんで、山本の寝顔を上から見つめた。
顔を下に向けると、きちんと拭いてこなかった髪からぽたりと水が落ちて、布団から出ていた山本の腕に当たった。
さすがに冷たかったらしく、小さく身じろいだ山本に、慌てて顔を後ろに引いた。
肩にかけていたタオルでとんとんと髪の毛の水分を取って、改めて山本の顔を覗く。
「…………」
たけし、と唇だけで象って、手を伸ばす。
名前を呼んだ事は一度もない。
彼は他にも何人も女性とそういう関係にあって、自分もその中のひとりでしかないと分かっているから。
武と女性達が呼ぶ中で、自分だけは絶対に名前を呼びたくなかった。
他の女性と少しでも違うのだと自分で思いたかった。
そんなもの、ただの自己満足にも満たない線引きでしかないのに。
数あるセフレの一人であるはずの自分に、山本は自分を愛してると嘯く。
一言も返した事のない自分にそんなサービスをしたって何も返せないのに。
それが山本にとっては何気ない、ベッドに入るためのほんのサービスのひとつなのかもしれないけれど、そのひとつひとつがはやとにとっては息が詰まるくらいに嬉しくて、辛かった。
好きだと、愛してると、軽く言えるような性格をしていなかった。
だけど一度言ったらきっと止まらなくなる。
そうしたら山本は離れていくから。
伸ばした手は触れるか触れないかぎりぎりのところで止まって、そのままじっとはやとは何かを待っていた。
肌からの熱が感じられそうなほど、身じろぎひとつされれば触れてしまうほどの距離で、もしかしたら起きるのではないかと思いながら。
自分から触れる事もできずに、かといって手を引く事もできずに。
自分だけを見てほしい。
自分だけを抱きしめて、好きだと言ってほしい。
ここで山本が目覚めたら、その願いが叶うんじゃないかだなんて馬鹿げた事を思いながら、腕が限界を迎えて痛くなるまではやとは何分もそのままの恰好で固まっていた。
やがて諦めたように、はやとは腕を降ろして肌に触れるかわりに袖の裾をそっと握る。
服をひっぱらないように、本当に少しだけ握り締めて。
「……やまもと」
起きないかな、と思う。
起きてほしいような起きてほしくないような。
おはよう、と言う笑顔が見たいけれど、いつまでもこのままこうしていたかった。
***
パラレルの山本は三階から落としたくなる事がままあります。