母親は何もしてくれなかった。
自分のことで手一杯で。
けれどもっと酷い女もいた。
ごみを捨てるかのように子を捨てた。

怒りを覚えた。




<Schutzer 3>





ニールは目をこすって、起き上がった。
いつの間にか寝ていたらしい。
「なん・・・」
何時だ、と携帯を見る。
そして起き上がった。
「ウソだろ」
思わず呟く。

慌てて周囲を見回すが、セツナの姿はない。
「セツナ」
ソファーで寝入っていたニールの隣にいたはずの子供はいなかった。
彼の毛布も消えていた。
「セツナ」
マンションの部屋からは出ないはずだ。

「くおん・・・」
玄関に出たロックオンを、座り込んでいたセツナが振り返った。
とりあえず外に行かなかったことにほっとするが、玄関を見てニールは眉をひそめる羽目になった。
「くおん、オンミ・・・いない」
戸惑いの色が濃いセツナの揺れた瞳に、頭を抱え込みたくなる。
現在の時刻は午前九時。
本来ならば仕事を終えて家に帰っているはずだ。
なのになぜ、セツナの母親はいないのか。
「本当にいないのか!?」
「いない・・・オンミ、ウェーン、ウェーン」
切れ切れにまた泣き出しそうなセツナからニールは距離をとる。
秘密兵器の飴はまだポケットに入っていたが、残り少ない。
セツナの母親が帰ってくるまで持つかどうかわからなかった。

とりあえずリビングの電気をつける。
部屋の中を見回し、それから寝室へ入ることにした。

かちゃり、と軽い音を立てて扉が開く。
そこは子供部屋だった。
セツナの部屋には興味がないので閉じて、もう片方の寝室を開く。


「・・・冗談じゃねーぞ・・・!」


部屋は、空だった。
何もなかった、否、家具はあったけれど。
クローゼットは開け放たれていて、その中にはなにもなかった。
引き出しも全部空だった。
手紙すらなかった。
なにも。
なにひとつ。

「セツナ、お前の母さんどこに行くって言った!?」
「オンミ・・・オンミ」
「ちっ、泣いてないでしゃべれ! なんか言ってなかったか!?」
「オンミ・・・」
ぼろぼろと涙を流すセツナに、ニールは苛立ったままリビングへ戻る。
仕事に自分の私物全てを持っていく人はいない。
ということは。


ということは。
セツナは。

「おいマネージャー!」
携帯で呼び出した相手に怒鳴りつけた。
「どういうことだ!」
『ちょっと、ニール君。どうしたんですか』
「セツナの母親だよ! 逃げやがったぞ!!」
『・・・えっ!? ど、どういう』

要領を得ない相手に、ニールは怒鳴った。
苛立ちとかそういうもので一杯だった。
早口でまくし立てるように説明すると、マネージャーはようやく慌てた声になった。
『わ、わかった。誰かを様子見にいかせるよ』
待ってて、と言われてニールは携帯を切るとソファーに投げつけた。

「くおん」
毛布を握ってリビングの入り口にセツナが立っていた。
そういえば風呂にも入れていなかったと気がつく。
夕食だってとっていない。
「くおん、ジャウアーン」
「はあ?」
「ジャウ、アーン。・・・すいた」
まるで暗号だ。
苛々しているなかで暗号まで解けというのかこのガキは。

「腹が減ったのか」
「すいた」
こくり首肯するので、ジャウアーンは空腹を訴える言葉なのだろう。
とりあえずそういうことにしておいて、ニールは大きい冷蔵庫を開く。
中にはあまりモノが入っていなかったし、ニールに料理はできない。
仕方なく牛乳を取り出した。
「これでも飲んでろ」
「・・・バーリドゥ」
「あぁ? 何が不満だ」
ぎゅっと毛布を抱え込んで、その中に顔をうずめたセツナは上目にニールを見上げながら、もう一度意味不明の単語を呟く。
そんな意味不明の言葉に付き合ってなぞいられなかったので、ロックオンはコップに牛乳を注いで自分の分を飲み干した。
「・・・」
見上げてくるセツナの視線が痛い。
何だってこんなことになってるんだ。

「何がほしいんだお前は! バーなんとかっていう食い物はない!」
キれて怒鳴ると、びくっと全身を一度痙攣させてから、とことことどこかへ行ってしまう。
いい気味だと思ってもう一杯飲んでいると、毛布をずるずるひきずりながらセツナが戻ってきた。
その手には、マグカップが握られている。
ぐいと無言でそれを手に押し付けられ、ようやくニールは悟った。
「あー・・・なるほど」
おそらく、温かいミルクがほしかったのだろう。
冷蔵庫から出したばかりの牛乳は冷たい。
「まあ、ホットミルクのほうがガキって感じだな」
牛乳をカップにいれ、電子レンジに突っ込む。
温めなおしぐらいはしたことがあるので、適当にチンしてレンジから出す。
「ほらよ」
「・・・」
受け取ったマグカップを抱え込んで、セツナはふーと息を吹きながら口をつけ。
へにゃりと顔をゆがませる。

「今度は何だよ・・・」
もはや我慢の限界はとっくに突破したので、疲れた声で問い返すと、キッチンの一点を指差している。
その先を追うと、そこにはハチミツがあった。
「ああ・・・そうですか。わかりましたよ」
もはや脱力するしかない。
普通に日本語がしゃべれるなら最初からこんな苦労はなかっただろうに。
「ほら、ハチミツ牛乳」
適当にハチミツをいれて差し出すと、それを受け取って一口飲む。

こくん、と飲み下してにっこりと笑った。
「ザキー」
「そーですか」
意味はわからずとも言いたいことはわかったので、ニールは適当に返して牛乳をしまうことにする。
だが早々に食べ物を何とかしないと、一室で餓死なんて冗談ではない。
・・・いや、深く考えなくてもその辺のコンビニに行けばいいわけで。
「くおん」
呼ばれて視線を向けると、セツナはカップを差し出していた。
中にはまだ牛乳が残っている。
「ザキー」
「もう飽きたのか?」
そう聞き返すと、首を横に振った。
それからしばらく思案顔になって、ぱっとまた笑顔に戻る。
「おいしい あげる」
「あー・・・」

ハチミツ入りホットミルクなんて間違っても飲みたい飲み物ではない。
大体ニールは甘いものは好きじゃない。
けれどここで断わるとまた泣いてめんどくさいことになるかもしれない。
「そうか、どーも」
受け取って一口飲むと、セツナがきらきらとした目で見上げてきていた。
感想を求められているらしい。
「・・・うまいぞ」
「♪」

にぱっと満足げに笑った子供にカップを返して、ニールはまた受け取ったそれをおいしそうに飲むセツナを見ながら、小さくため息をついた。
どうして、この子の母親は。
ニールを預かると言って、姿を消したのか。

どこに行ったのか。
そもそもなぜ、ニールを預かることにしたのか。


いや、そんな理由なんてどうでもいい。


「・・・信じられねぇ・・・」
こんなまだ、五つ六つの子供を置いて家を出て行ったセツナの母親に、静かにけれどかなりの、怒りを覚えた。
 

 




***
本来ならセツナとニールの関係に迫るシーンまで進むはずがミルクエピソードで終わってしまった。