開いていた本を閉じて、ロックオンは片手を上げた。
「よお」
「もう読みましたか」
「まあな。問題なくやれそうだ」
ガンダム操縦マニュアルを閉じて、ロックオンは傍らに積みあがっていた本を叩いた。
それは以前アレルヤがロックオンから借りたもので、覚えている限りを持ってきていたのだ。
「後問題は一つです」
「なんだ」
「部屋の暗証番号、覚えていますか」
「・・・」
黙したロックオンに、誕生日とか・・・とアレルヤはつぶやいたが、それに首を振った。

ロックオン=ストラトスが誰かを調べ始めて、丸一日。
彼は本当に穏やかで、愉快で、兄貴分で。
子供を可愛がって、面倒をよく見て。
それでいてリーダーシップをとっていた人間なのか疑わしいと思うようになっていた。






<Vanished Pain 2>






「記憶喪失?」
「暗証暗号だけ局所的に、ね。ショックでボケがきたかな」
肩をすくめて笑ったロックオンにスメラギはまあいいわ、とキーを叩く。
「新しい暗証番号は4487よ」
「どーも、お世話かけました」
「訓練には戻れそう?」
「だいじょーぶですよ、明日からは通常に戻します」
ニコリ笑って言ったロックオンに、スメラギもほっとした表情を見せた。
「よかったわ、日程がずれ込むとティエリアがそれはもううるさくて」

ティエリア=アーデ。
まだロックオンは一度も彼の顔を見ていない。
アレルヤ曰く「他人にも自分にもすごく厳しいけど、とても聡明で少し世間知らずのすごく美人」だろうだが、アレルヤはおそらく艦内で一番ティエリアを正確に評価できない人物だろうから、余り当てにしていない。
そう、ティエリアが「彼」というのも、奇妙な齟齬にロックオンが気がついて初めてわかった事実だったのだし。

「じゃあね」
「ども」
開いた扉からロックオンは部屋の中に入る。
暗かった部屋に明かりがついて、ロックオンはその空気を吸い込んだ。
数日前まで、「自分」はここで生活をしていた。
慣れ親しんだ場所のはずだ。
(さて・・・どこからはじめるか)

記憶を喪失したからといって、完全な別人になることはないと考える。
自分の過去はまったく思い出せないし、ついでに常識らしいこともぽろぽろ抜け落ちていたが、一つだけ思い出したことがあった。
出身は――アイルランド。
それがわかったのは、自分が操る英語のかすかな訛りとどうして自分が銃を構える人間の手のことを知っていたかに思い当たったからだ。
兵士を知っていた。
その手のひらを知っていた。

ロックオンは本棚を見、ベッドへと視線を移す。
無言で足元の毛布をまくり、その下のシーツもめくった。
さらに下に挟まっているマットレスをめくる。
「ビンゴ」
布の袋をとりあげて、今度はベッドの下を見た。
そこに鎮座していたのは硬そうな材質で出来た箱。
引っ張り出して、先ほどの袋から鍵を取り出した。

箱を開ける。
紙に包まれた何かが入っていた。
それを取り上げてめくる。
中には二枚の写真。

一枚は穏やかに微笑む男女だった。
互いに手を重ね、こちらを見つめている。
もう一枚は自分だった。
少なくとも、自分の顔を十いくつ若くしたらたぶんこうなるだろうと思われる年齢だった。
幼い頃の自分の写真を持っておく意義があるのか?

男女の写真はおそらく両親のものだろう。
何気なくひっくり返してみると、そこには。


"Don't forget Neil Duranty"



「ニール・・・ディランティ?」
口に出す。
奇妙な違和感を感じた。
誰だ、両親の名前なら二つ書いてあるはずだ。
そう考えてから、そのメモが書いてあるのはもう片方の幼い頃の自分の写真だと気がついてさらに違和感を覚えた。
これは自分ではないのか?
苗字が違う理由は?

そこまで考えてから、先日のアレルヤの微妙な表情と言葉回しに思い当たる。
――あなたは、ロックオン=ストラトス――と思っておいてください
思っておいてください、と。
婉曲な言葉回し。
記憶を失ったロックオンに混乱しているのかなにかかと思っていたが、そうではない。

ロックオン=ストラトスは、本名ではないのだろう。
そうだ――それならば組織について話しにくそうにしていた態度の理由もわかる。
そしてロックオンのそれが偽名だということをアレルヤは承知していた。
・・・このソレスタルビーイングという組織の性質上、クルーの大半が偽名を使っている可能性だって大いにある。

Don't forget Neil Duranty

その言葉の表す意味は。
「・・・と言ってもそのニールの記憶だってないわけだがな」
皮肉ってロックオンは写真をベッドの上に投げた。

きっと何度も眺め決意を新たにしていたはずの写真すら、何も呼び起こすことはなかった。










致命的なミスは何とか回避し、ロックオンは演習を終える。
早めに練習用の操縦席に乗り込んで、マニュアル通りにがこがこいじってやっただけだったが、すんなり操縦桿は自身になじんだ。
「ロックオン セーフ セーフ」
ぴよぴよ飛び跳ねる球形ロボットは、ハロと言う。
ロックオンの作業を補佐する高性能ロボット・・・なのだそうだが、正直うっとうしいことこの上ない。
何だってこんな雑音発生マシーンが戦闘中にそばに居るんだ。

「問題はないようですね」
微笑んで話しかけてきたアレルヤは「問題」を二重の意味で言っていた・・・のかどうかわからなかったが、とりあえず人好きのするらしい笑顔を浮かべておいた。
「大丈夫だな」
「何が大丈夫だ。あんな致命的なミスをするとは思いませんでしたよ」
「病み上がりなんだよ、勘弁してくれ」
そういって振り返って、一瞬止まった。
紫のパイロットスーツに身を包んでいたのは、傾国の美女だった。
・・・否、声からして明らかに男だ。
「そうだよティエリア、ロックオンは昨日まで絶対安静だったんだから」
「万全の体調でないのなら訓練に出てくる必要はないでしょう。この後のミーティングの必要はありませんね、今回はあなたのミスばかりだ」
「・・・わーったよティエリア。俺が悪かったです」
言いたいことだけ言って背中を向けて去っていくティエリアを、ちょっと、と呼び止めようとしながらアレルヤが後を追う。

・・・なるほど、あれは確かに美人だ。
そしてたぶん他人に厳しいのも本当だろう。
ついでに気がつかれやしないかとひやっとしたが、同じぐらいの勢いで他人に興味がないらしいので幸いだ。

「ロックオン、食事に行く」
「え?」
「まだ体調が悪いか」
「あ、いや・・・そうだな、よし、行くか」
笑いかけて。
朗らかに。
「先に行ってる」
「おう! 俺もすぐに行くからな!」

優しく。
快活に。

「ロックオン ドシタ ドシタ!」
「黙ってろ」
ぴこぴこ、とハロの目が瞬く。
言われたことを理解しかねているのか――ロックオンの言葉に違和感を覚えたのか。
「ああ――悪いな、ちょっと体調がよくない」
「アンセイ アンセイ。フェルト シンパイ シンパイ」

腕の中に納まってきた機械を持って歩き出しながら、陰鬱な気分になった。


――なあ、ロックオン=ストラトスよ。
あんた本当に、この生活を楽しんでいたのか?
 

 



***
兄貴だった自分に違和感を覚えるロックオン=ストラトス。
ハロも安全ではないという地獄です。