「まさむ、ね、ど」
最後まで彼の名前を呼べなくて、幸村は書を握り締める。
ぽたぽたと涙が落ちて、床をぬらした。
「まさむ、ね、どの」
繰り返してようやく呼んでも、彼が来るはずなどないのに。
「政宗、殿」
あいたい。
あいたい。
<片恋>
涼しい風にあたりながら、縁側に二人は腰掛けていた。
筆頭手ずからいれた茶……だったが、幸村が静寂に耐え切れなくなったのを見て取ったのか襖を開け放って外へ座ったのだ。
「申しわけありませぬ、政宗殿。某、あのような席は……」
「Don't mind. かまわねぇよ」
良い夜じゃねぇか、と頭上を見上げて政宗は笑う。
そこには丸い大きな月があった。
「知ってるか真田。太陽は地上を回ってるんじゃないんだぜ」
いきなりの言葉に幸村は首をかしげる。
「どういう意味でございますか」
「太陽は地球の周りを回ってんじゃなくて、ほんとは俺達がいるこの国よりずっともっとでっかい火の塊で、俺達がその周りを回ってるんだよ」
「はあ……」
太陽は昇って沈むものだ。
くるくるこの国を回っているのだと思っていたが。
政宗は、時々そういう幸村には理解できないことを言う。
何も知らない幸村は教えられるしかできず、それがとてももどかしいけれど。
楽しそうに説明してくれる政宗を見るのは、好きだった。
「月も、そうなのでございますか」
言って、横の人を見た。
彼は月を仰いで薄く笑う。
「月は、違う。月は俺達の周りを回ってる」
「はあ……」
それがどうしたのだろう、とは思ったが聞くことはなかった。
なんとなくそれは、彼の気分を害しそうだったから。
「太陽と月では、どちらが我らに近いのですか?」
「月だ」
「では某は」
政宗殿の月でいたいです、と言うと。
空を見上げたままで、そりゃ無理だろうとかわされた。
「……」
外は、静かだ。
気がつかれないように幸村は目を強く閉じる。
早鐘のような音をたてる胸を、単衣の上から握りこむ。
きっと、他愛のない言葉なのだろうけど。
無理だと軽く言われた言葉は、他のどんな一太刀よりも、幸村の心を深く抉った。
「は……はは、そうでございますな。この幸村、月のように静かにいることはとても……」
できませぬ、と曖昧にぼやかした感情がうねって押し寄せる。
油断すると緩みそうな涙腺を必死に押しとどめた。
「アンタは太陽だろ」
すいと向けられた視線に、別の意味で胸が痛くなった。
この感情を、言えばわかってくれるのではないか。
時々、そう思うのは政宗の優しさに触れるからだ。
否、理解してもらえるはずもない。
彼は一国の主で、好敵手で。
幸村と戯れにこうやって交流があるのは、きっとものめずらしいからだ。
戦場では対等にやりあう自信があるが、ひとたび武器をおくと何をしていいか判らない幸村を面白がっているだけなのだろう。
それだけなのだと自分に言い聞かせても、月下に見る彼の表情は、髪は、目は、指は。
「……まさ、むねどの」
震える声で手を伸ばして、すぐ傍に置かれていた彼の手に、触れる。
驚いたような顔をされたが、その手は引かれることは無い。
(嗚呼、残酷な、方だ……)
気がついていないなら、振りほどいて欲しい。
嫌悪して欲しい、嫌がって欲しい。
そうすれば、こんな。
「真田?」
どうした、と言われて。
幸村は少しだけ、重ねた手に力をこめた。
「……政宗殿、某は太陽ですか」
「あ? ああ、まあな」
「つきは」
Ah-,と政宗は視線を幸村から逸らした。
もう一度見上げた月は、明るい。
「俺じゃねぇの」
「政宗殿はあのような……弱い光ではございませぬ」
「俺は別に」
強かぁないぜ、と政宗は笑って風で落ちてきた髪をかき上げる。
幸村が重ねている手はそのままだ。
「ま、政宗殿はお館様の次に日本一の武士でございます!」
「Cool, 信玄公と並べられちゃあ、光栄だ」
にいと笑ってから、真顔になって。
政宗は月を仰ぐ。
「……月ってなぁ、自分で光ってるんじゃないらしい」
「はあ」
「太陽の光を受けて、光ってるんだとよ」
だったら光らなきゃ、いいのにな。
そう言った政宗の横顔に、一瞬見とれた。
そして、なんて悲しい人なのだろうと、思った。
「な……」
「Jokeだjoke」
「なんということを言うのだ! 夜に月がなければ大変だ! それに太陽は姿を変えないが月は毎晩美しい姿を見せる! 月は光らなければ」
目を丸くしていた政宗に気がついて、握り締めていた手に気がついて、幸村は慌てて手を離す。
体も急いで動かして、少しだけ遠くに座る。
どうしていいかわからなくて、立って逃げることはしたくなくて、政宗の手を掴んでいた手を反対側の手で包んだ。
「んなやわじゃねぇから心配すんな」
隣の言葉に、違うのだといえなかった。
いえないまま、ぽんぽんと頭を数回撫でて、彼はそこを立ち去ってしまう。
「ま、さ」
止めることはできなかった。
訪れた城は、前に来た時と変わらない。
ただ季節だけが少し移ろっていて、もう風が吹かなくとも肌寒い。
「政宗殿……」
「Hey,真田」
私用で呼び出して悪ぃな、と言われて幸村は首を横に振る。
「お気になされるな。お館様からの用も賜ったゆえ……して」
いかがなされた、とさりげなく尋ねる。
それは、幸村の必死の演技だった。
十日前に届いた政宗からの書状には、丁寧に、先日の侘びが書かれていた。
太陽のこと、月のこと。
そして、最後に。
「都合がついたらこちらに是非」
先日の続きを、と書いてあって。
「大したことじゃねぇ」
アンタが気にしてんじゃねぇかと思っただけだ、と嘯いて政宗はたたみの上に胡坐をかく。
「足、崩していいぜ」
「まさか」
慌てて首を横に振る。政宗はこの城の主であり、そもそも奥州の長である。
一家臣の幸村は格が違う。
「……そういうところが、近くねぇんだよ」
呟いた政宗は、幸村を見上げてにいと笑う。
「なあ、幸村」
「!」
めったに無い、呼ばれ方をされて。
幸村の鼓動が高く跳ねる。
「月が良かったのは近いからか?」
「……」
「俺に、近いからか?」
くすくす、と笑われて。
幸村はカッと顔が熱くなった。
気がついていたのだ。
伊達政宗は聡い男だ、そんなことわかっていた。
彼は、気がついて――気がついて?
「そ……そうで、ござる」
幸村が手を伸ばせば触れるほど近くにいる政宗は、客人を迎える用の正装なんぞとっくに解いて床に投げている。
だから今はとても軽装で、寒いのではないかと思うぐらい薄くて。
たとえば、押し倒しても。
「幸村」
お前、と呼ばれて。
顔を上げられなくて伏せていると、指が伸びてきて顎を捕まえられる。
「ま、まさむ」
「お前、俺が好きだろう?」
鮮やかな色の唇にそう囁かれて、幸村は固まる。
「判りやすすぎるんだよ。忍にちゃんと教育してもらえ」
呆れたように笑う政宗の指は、まだ顎から離れない。
「で、どうなんだ幸村。Say it.」
「ぅお……ぉれ、は」
「俺が好きだろ?」
ああ、なんだかいつの間にか、凄く近くにいる、と冷静に思えた。
問いかけてくる政宗の顔は、確実に触れるところにあった。
手を伸ばさなくても、少し動かせば。
「なあ、幸村」
目を細めて笑った政宗に、幸村は、頷いた。
そうか、と小さく呟かれる。
泣きたくて謝りたくて、思わず目を閉じた。
もうこれで、手合わせと銘打った邂逅はないだろう。
次に会うのは戦場で、それですら好敵手と呼んでもらえるかどうか。
――謝らなくては。
「もう、しわけございませぬ……」
目を閉じたままだったが、言葉だけは何とか漏らせた。
「某、けして政宗殿を侮辱する、わけではなく。とても綺麗で、強くて、某など到底敵わぬお方で……俺は、ただ」
それでもここに来たのは、会いたかったから。
諦められなかったから。
「……幸村」
「け、軽蔑してくだされ。憎んでくだされ」
「それで俺を忘れられんのか?」
静かに問われて、幸村は首を横に振る。
「……某は、政宗殿を……」
「All right. No mo crying」
異国の言葉が真正面から聞こえた。
先ほどと声の聞こえる位置が違うことは判ったけど、目を開けることは敵わず。
「幸村」
静かなあの人の声を、せめて今は全身で聞こう。
「お前、すっげぇもったいない誤解してるぜ」
笑い声も、からかう声も。
「…………気がつかないとは、思わなかった」
少しだけ、悲しげな声も。
頬に触れる、この指も……
「………………!?」
唇に柔らかいなにかがあたって、幸村は目を見開く。
そこには、目を閉じた政宗の顔が、あった。
「っ……」
理解できなくて、頭がぐるぐる回る。
けれど、これは。
「おい、せめて背中に手ぇぐらまわせよ」
瞼を持ち上げて睨んだ政宗を、幸村はそっと、震える手で、抱きしめた。
<双恋>
****
地動説は当時かなり最新知識です。
政宗様スゲー!
あー……つまり、幸村にシリアスは無理だってことだね理解した!!