<生い立ち>
ザーフィアスは帝都だ。
つまり、統治者である貴族が多く住まう場所だ。
「や、やめてくださいっ……」
か細い悲鳴をあげた娘の腕を握っていたのは赤ら顔をした男だった。
おそらく酒に酔っているのだろう、にたにたと笑いながらもその手を離す様子はない。
市民街の一角にあるこの酒場でこんな事があれば、騎士団の到着など待つまでもなく、素面の勇者か酔った男が娘を救うために立ち上がるのは間違いなかった。
しかし今日は誰も声を上げず、娘も助けを求められず震えている。
「やだ……やめて」
「誰も助けちゃくれないさ」
市民街では浮いて見えるずるずるとした服を着た男は、帝都の最上階の住民の一人だった。
つまり、貴族だ。
統治者に逆らえる者など市民街には多くない。
逆らった後の事を考えれば、ここで他人が多少乱暴されるのを見過ごすのがもっとも賢い選択になってしまう。
だから誰しも目をそらし、うつむいた。
誰に助けを求めても無駄であるし、助けてもらえない事を知っている娘は震えるしかない。
ここの経営者である彼女の両親が助けてくれるかどうか、といったところか。
恐怖に目を閉じて震えていた彼女に、男は顔を近づける。
「お前がちゃーんとこればいいんだぜ」
「う……う、うっ……」
「そうだ、いい子だな、こっちへ――ブガッ!」
娘を引き寄せようとしていた男は、変な声を出してその場にひっくり返った。
その直後にカランカランという音が静かな店の中に響く。
「あーあ、青年ったらあいっかわらず堪え性がないんだから」
店の端から響いたのんびりとした声に、かぶせるように若い男の声が響く。
「ユーリっ! なんてことしたんだ!」
「お前だって飛び出しそうだっただろ!?」
茫然としている客達の空気など気にしていないようで、店の端で立ち上がっていた二人がぎゃあぎゃあ言い合いを始める。
「タイミングを計ってたんだよ!」
「今のがベストタイミングだろうが!」
「だからって……だからってあんなもの投げつけるか!?」
「皿投げつけたら店に迷惑だろ?」
「あれは立派な武器だろう!? 傷害罪が重くなるじゃないか!」
叫んだフレンにユーリは肩をすくめて抜き身の刀を見せる。
もちろんぶん投げたのは鞘の方である。
「お、おまえ……!」
「おっ、もう起きあがった。お貴族様のわりに頑丈じゃねぇか」
ヒュヒューとはやし立てたユーリは、楽しそうな笑顔で立ち上がる。
「ユーリ、僕が」
「喧嘩売ったのは俺だしな♪ しばいて連行しておくぜ☆」
ベキボキと拳を鳴らしながら嬉しそうに言ったユーリに、フレンとレイヴンは溜息を吐いた。
「……一応犯罪よ青年」
「いいんだよこれくらい」
しれっと言ったユーリは、まだ床に倒れたままの男を引っ張り上げて、口元に笑みを浮かべたまま顔を近づける。
「無抵抗の市民に手ぇ出してずいぶんな御身分だよなあご貴族サマ?」
「あ……う……き、貴様っ……」
「そんなに元気があるなら俺とちょっと殴り合いしてくんねぇ? すぐに騎士団が来ると思うしさ☆」
ま、そっちにその気がなくてもするんだけど。
言い放ってユーリは男を引きずりながら店の外に出ていく。
やれやれという顔でいつも通りのユーリを見送って、レイヴンとフレンは立ち上がる。
美味しいお酒と料理だったが、これだけ周囲の注目を浴びてしまったのだからここにはもういられまい。
「ちょっともったいないですけど……しょうがないですよね」
「料金タダになったし、せっかくだから飲みなおさない?」
どうせ青年しばらく戻ってこないだろうし、と言ったレイヴンにフレンは頷いた。
夜半の市民街を二人はうろつき、先ほどまでいた店とは離れた場所にあった店に入る。
すでに閉まる店もちらほら出てきていたが、ここはまだまだやっていると言われて一息つく。
向かい合ってグラスを傾けながら、レイヴンは何気なく聞いてみた。
「そういえばさフレンちゃん」
「なんですか?」
いまだにレイヴンに対して敬語ではあるけれど、昔よりはずっと固さの取れた表情でフレンは首を傾ける。
「青年って貴族をやたら嫌うけど、フレンちゃんはそうじゃないわよね」
「僕は……そうですね」
何かを考えるような顔になってから、フレンは少し視線をそらす。
それからゆっくりとレイヴンを見つめると、手の中でグラスを転がした。
「レイヴンさんとのお付き合いも長いですし、いいころ合いかもしれませんね」
「へ? なに?」
きょとんとしたレイヴンに、フレンは曖昧な笑みを見せた。
「ユーリの罪状は陛下とエステリーゼ様が帳消しにしてくださいましたので公式文書には残っていませんけど、ご覧になったことはありますか?」
「ああ、青年に接触した後に調べてみたけど、軽いのばっかりよね、せいぜい牢屋に十日とか」
「おかしいと思われたことないですか?」
「え?」
目をぱちくりさせたレイヴンに、フレンはぽつり、と語りだした。
「僕とユーリじゃ立場が違うんです」
「幼馴染でしょ?」
「そうだけど――違います。レイヴンさんならわかるでしょう? 僕がユーリと同じコトしてたら、とっくに数年単位で刑期食らってますよ」
「……え」
眉をひそめたレイヴンに、フレンはどこか遠くを見るような目をしながら語る。
「ユーリのお母さんは下町の人でした。とはいっても下町出身ではなかったらしいですけど。僕も会ったことはないのでよくは知りません」
ユーリは家族のことなんて話さないですよね、と言われてレイヴンはこくこくと頷く。
父親の話も母親の話もユーリの口から出たことはない。
一度少し酒の勢いで尋ねたら「孤児だったんだから察しろよ」とは言われた。
それでも――母親がいたのは確かだろう。
「ユーリを産んですぐにいなくなったそうです。出て行ったのか殺されたのかはわかりません」
さらりと言ったフレンのセリフに物騒な単語が潜んでいて、レイヴンはぎょっとして口をはさんだ。
「ちょ――殺されたって」
「ユーリの父親は、いないんですよ」
「いない、って……」
「正確に言えば不明です。でも、聞いたことがあるんですよ」
ユーリの母親はユーリによく似た美女だったという。
つややかな黒い髪に整った顔立ち、そして強い意志の目。
身なりに対して気を使わない男であってもあの美貌だ、それが女性であればさぞ人目を引く美人だっただろう。
「ユーリのお母さんには、なんていうのか……恋人、ではないですけど。お相手がいたんです」
それが父親なのだろう、と察してからレイヴンはいったん思考が止まった。
レイヴンがフレンに尋ねたのは「ユーリが貴族を激しく嫌うのに、同じような生い立ちのフレンがそれほどではないのはなぜか」だ。
それに対してフレンはユーリの生い立ちを話し出した。
ということは、その生い立ちにこそユーリの理由が隠されているはずだ。
父親はいない。
母親には夫はいなかったが相手はいた。
ということは――
「その男の人は貴族、でした。お約束にご丁寧に婚約者までいたんですけど」
「ちょ、待ってそれじゃあ……」
「ユーリを産んですぐに、ユーリのお母さんは――「子供の顔くらい見せてあげたい」といって出て行ったそうです」
「それきり、帰ってこなかった……?」
「はい」
頷いたフレンは、溶けかけた氷の入ったグラスを回してゆっくりと口に運ぶ。
「ユーリが貴族を憎むのも、無鉄砲なことをするのも、無理もないことだと思います」
「……騎士団長様は知ってたの」
低い声でレイヴンが尋ねると、フレンは小さく頷いた。
「ユーリの罪を評価して回すと、必ず刑が軽くなって戻ってきますからね」
「おっさんは……てっきり」
「僕がどうこうできるわけないじゃないですか、当時はせいぜい小隊長ですよ」
それに、と続けてフレンは小さく微笑んだ。
「不正かもしれないけど、ユーリのことなら、僕は」
「青年も……知ってて?」
「だから、僕が表で、ユーリが裏なんですよ」
逆にしちゃったらどっちも困りますからね。
そう言ったフレンに何と返せばわからなくなって、レイヴンは低く唸るとグラスをあけた。
***
冷静に考えてユーリの罪はもうちょっと重いんじゃないかと。
牢屋に数日ってなあ……。
まあ世界が違うからそれまでですけど!
酒を浴びるほど飲んでも結局酔えなかったレイヴンは、微妙な気分で目的地の前にたたずんでいた。
去り際にフレンが「たぶんユーリは部屋に戻ってると思いますよ」と言い残したのでなんとなく彼の部屋の前に来てみたが、どうにも入る勇気がおきない。
罪の裁量に圧力をかけられるのは貴族の中でもかなりの有力者に限られる。
もしもフレンの話が正しいのなら――ユーリは……
覚悟を決めて扉を開けようとした瞬間。
「ワウッ」
「どうしたラピー……よぉおっさん」
にやりと笑ったユーリと三秒ほど見つめあって、レイヴンはひっくり返った声を上げた。
「ああああのね違うのよおっさんはただね青年が心配になって!」
「フレーン、やっと来たぞー」
「レイヴンさん遅かったですね」
部屋の奥からひょいっと顔を出したフレンに、レイヴンは思考が止まる。
「ほら、僕ちゃんとできただろ」
「さっすが親友、ノリがいい♪」
「君を扱ってきたんだからこれくらい簡単だよ」
目の前でハイタッチとかしている下町っ子を見ながら、レイヴンはどうやら目の前の現実は何かがずれていると気付いた。
「あのう……フレンちゃん」
「はい」
「さっきの酒場での話は……?」
「あのなおっさん」
にやにや顔でユーリが指し示したのは卓上カレンダー。
仕事に必要だからとカロルがどこからか持ってきて置いていったらしいそれには、今日の日付。
「今日はエイプリルフールだ」
「じゃなきゃ嘘なんてつきませんよ」
「うそ……?」
「なんせ二週間前から考えたネタだからな!」
ぐっと親指を立てていい笑顔を向けてきたユーリと、ごめんなさいと言いながらもあまり悪びれていなさそうなフレンに、レイヴンは絶句する。
「だ、だって……つじつまがあって」
「あのなあおっさん」
情けないぜ? とユーリは言って指を振った。
「俺が生物学的父親の権利とかかざしてやりたい放題する奴に見えるか? フレンがそんなこと黙認する奴か?」
「そうですよレイヴンさん、ユーリはそんなことする奴じゃないですよ」
「……………………」
膝から崩れ落ちたレイヴンは思わず顔面からラピードに抱きついた。
「ワウッ!?」
「おっさんの味方はラピードだけだよ!」
「ワゥフッ!?」
***
そんなオチ。