戦乱の続く地域では往々にして木は切り倒され、資源にされてしまう。
エルフの囚われていた砦近くでもそんな無残な森の姿を見てきたから、ここの森の美しさには言葉もない。
今いる砦も緑は多い。けれどこれは違う。
「すごい……」
朝露に濡れているのだろうか、つややかに光る深い緑の葉。
立ち込めている霧がさらにその緑を際立たせている。

見たことがない圧倒的な緑は、引き込まれるような神秘さと同時に、拒絶しているような排他性も持っていた。
そう感じるのはこれが異質なものだからだろうか。
「これが……エルフの森」
戦乱の時代でも人が手つかずにする事しかできなかったそこは、強大な結界で守られた森だった。
試しに自分達だけで入ってみようとしたのだが、ちっとも奥に進めず、すぐに出口に出てきてしまう。
エルフの森に入るにはエルフの力が必要だ、という迷信めいた噂はやはり本当なのだと身をもって実感する。
……二度と出てこられないよりはマシだな。

「ここが入口、です。ちゃんとついてきてください、ですよ?」
長い耳をぴくぴくと動かしながら見上げてきたサヴァは、もう一度念を押すようにキッシュに告げる。
薄緑の目が森の緑を反射して深くきらめいているのを覗き込みながら、キッシュはしっかりと頷いた。
ついてきてくださいと念を押されなくとも、彼女を見失えば一行はまた森の入口に戻される羽目になるのだ。
あまつさえ奥深くではぐれればそのまま戻れないかもなどと言われれば、必死に付いていくに決まっている。


森の中に入った瞬間、サヴァの足取りが一気に軽く、速くなる。
怪我が治ったばかりとは思えない速度は気を抜くと小さな背中を見失いそうになるほどで、住んでいるのだから当たり前だとは思いつつ、木の根に足を取られかけたキッシュは軽く舌打ちをした。
「サヴァ、ちょっと」
「なに、ですか?」
ふわりと振り返った彼女は、誰も脱落していないことだけ確かめてすぐにまた前を向いてしまう。
速すぎると意見する前にさらに距離をあけられて、キッシュは慌てて足を前に出した。

「ちょ、待ってくれサヴァ――おい!」
森の中は静かでうるさい。
聞こえていないのか、サヴァはどんどん前に進んでしまう。

まずい、置いていかれる――と。
そのふわふわ揺れる金髪が遠ざかるのを追いながら思った時だった。
「おい」
キッシュの後方から低い声が何かを呟き、サヴァはぴたりと足を止める。

「……?」
「速すぎる。人間とエルフでは森の中の速度が異なると知らないのか」
チェイスが人の言葉で話しかけるのをサヴァはなぜか不思議そうな表情のまま聞いている。
その興味の対象は、チェイスが話した内容ではなく。
「どうしてその合図、知ってる、ですか?」
「前に教えられた」
相変わらず短く答えたチェイスはそれ以上答える気はなさそうだった。
それはサヴァにも分かったのか、再び森の中を歩き始める。
今度はさっきよりずっと落とされた速さにほっとしつつ、サヴァの横に並び立つ。

「さっき不思議そうにしてたけど、どうしたんだ?」
「チェイスがさっきやったの、エルフしか知らないはずの合図です」
「合図?」
そんなのいつしていたのかキッシュには分からなかったが、エルフには分かる何かが行われた……らしい。
「人間には、教えちゃいけないもののはずなのに」
そう零したサヴァは不思議そうで――少し、不服そうだった。





***





エルフの里での滞在は短いものではあったけれど、サヴァと……ここでもチェイスの存在は非常に役立って、おかげでエルフの治療についてはうまく話がついた。
砦から救出したエルフ達は、動かしても大丈夫な状態になった者から里で治療をすることになり、サヴァはなぜかこのまま砦に滞在を続けるらしい。
こちらとしてはサヴァの自由にしてくれれば構わないと了承したが、今まで交流のない人間相手にいいのか、とは思った。
素直に聞いたキッシュに対して、エルフの長老は女性とは思えないほど豪快に笑って返したが。
「それを気にして口にするような子がいるなら大丈夫さね。あの子はほんとおてんばだから、よろしく頼むよ」
その言葉は、今はまだにわかには信じられなかった。
砦にいる時のサヴァはいつも引っ込み思案で、おどおどとしていたから。
もしかしたら、これからは長老の言うような一面が見られるようになるのかもと思うと少しばかり楽しみでもある。

そうして砦に戻って数日。
サヴァが連れ立って歩いている二人を見かけた。
二人というのはサヴァとチェイスで、サヴァが自由に出歩けるようになって、人間への警戒をある程度解き始めても、一番懐いているのはやはりチェイスだった。
傍から見ていると非常に面白いコンビを廊下の端からうかがう。
実年齢はさておき、外見年齢は……髪の色も近いこともあって年の離れた兄弟というところだろうか。
その気になれば親子にも見えなくはないな残念だチェイス、と思いながらキッシュは顔を出す。
「サヴァ。チェイス」
「キッシュ」
「一緒に散歩か?」
「そうです」
にこにこ笑うサヴァに、そうかそうかと頷いてからチェイスを見る。
「なんだその視線は」
「いやべつに。チェイスの出身地ってエルフ多いのか?」
「……多くはない、が」
質問の意図が分からなかったのか聞き取り間違えたのかと思ったのか、返る言葉は少し歯切れが悪かった。
「いや、言葉もできるし、エルフしか知らない合図も知ってたりしたみたいだから、エルフと親しくなれる環境だったのかなと」
「そういう……わけでは」
今度は明らかに言葉を濁したチェイスに、キッシュもサヴァも首を傾げる。

「あれ、素敵な組み合わせですね」
「お、ロアン」
真後ろから声をかけられて、キッシュは振りかえる。
いつもの本を手にした笑顔でロアンはサヴァに笑顔を向けた。
「サヴァさんですね、こうしてちゃんとお会いするのは初めてでしょうか。ロアンといいます。*****」
付け足された最後の音に、サヴァが驚いて耳をぴくぴくと動かす。
「ロアン、喋れるです?」
「挨拶の言葉だけですね。チェイスさん程たくさん話す機会はなかったので、そんなには話せません」
「何を言って」
珍しく裏返りかけた声を上げたチェイスに、ロアンはにこにこと笑っている。
まるで悪意がない笑顔なのだが、チェイスがなんだか怖がって見えるのは気のせいか。

「そういえば一度そろって顔を見たいってお母さんが言ってました」
「なっ……なぜアズミが知っている……!」
思いっきり動揺している。
あのチェイスが、面白いくらい動揺している。
事情はよくわからないが、いいぞロアンもっとやれ。

キッシュが小さく拳を握っている間に、「そんなのみんな知ってますよ?」と相変わらずの笑顔のロアンの前で、チェイスが苦い顔をしている。
そんな二人を見ながら、サヴァがチェイスの袖を引っ張って不満げな顔をした。

「チェイス。何の話……です?」
「…………気にしなくていい。……行くぞ」
「はい、です!」
微妙な空気の均衡を崩す質問に、これ幸いと踵を返したチェイスと。
彼を嬉しそうな笑みで追うサヴァと。

そんな二人を見送りながら、しかしキッシュには第六感はなかったので今後の展開は読めなかった。





***
何かが起ころうとしている。