きらきらとよく光を反射するであろう大きな緑の目が、今は影が落とされて伏せられていた。
痛々しいという言葉がもっともふさわしい姿をしたエルフの少女は、先ほどから怯えた目で周囲を見回している。
無理もないだろう、とキッシュは視線を逸らした。
苦痛、恐怖、彼女から伝わってくる感情はすべてそれに類するものだ。
細い四肢にはかなりの数の傷があり、つけられた時期も様々なことは明らかであった。
数日間ではなく、おそらく数ヶ月以上、彼女は傷つけられ続けていたのだろう。




宿屋の宿泊部屋の廊下には、ロールの父親であるムドがいた。
出会った時からほとんど量の変わらない髪と同じ色の目がキッシュを捉えると、申し訳なさそうな色が宿る。
「よう、キッシュ。悪いな」
「ロールから聞いた」
「放っておくわけにもいかなくてなぁ……」
「てか、なんで外にいんの」
「マーファさんに追い出された」
強面は出て行けと言われた……としょげている髭面はさておいて、キッシュは軽くドアをノックして中を覗いた。

「マーファ」
「キッシュ、きたのね」
すでに手当ては終えたのだろう、残った包帯や道具を片付けていたマーファの傍、ベッドに横たわる淡い金の髪をした少女がいた。

「様子、どうなの」
「傷の手当は終わったのだけど……」
喋ってくれなくて、と困り顔のマーファの横に立って、膝を折る。
近くで見ると包帯の巻かれていない肌にも沢山の擦り傷や切り傷、治りかけた跡があった。
強面だからと追い出されたムドがいなくても、マーファやキッシュを前にしても、棘ついた感情は和らぐ気配を感じさせない。
「名前、言えるか」
なるべく怖がらせないようにと穏やかに言葉を発したが、少女はビクリと体を震わせて縮こまってしまう。
「大丈夫、敵じゃない」
それでも怯えているエルフは、シーツをたぐって長い耳を隠してしまった。

マーファを見上げると、困り顔のまま首を横に振られる。
それ以上無理にしてもだめでしょう、と目で言われれば、キッシュは立ち上がった。
「ムド、ずっとこんな感じだったのか?」
「俺が見つけた時には意識を失っていたからな……」
あのままだと死んでおった、と眉を寄せるムドは、エルフの少女とロールを重ねたのかもしれない。
娘と外見も同じ頃合だし、髪の色もよく似ている。

「言葉が通じていない……とかかしら」
それもありえるか、とマーファの言葉に頬を掻く。
そもそもエルフは大陸の端にある自分達の領地から決して外には出てこないので、当然目にするのも初めてだ。
遠目で目撃される姿から、外見については出回っているものの、実際に言葉を交わしたという例は耳にした事がない。
自分からエルフの領地へ行く者は稀で、行けば戻ってこられないという噂もある。

そうして互いに不可侵を暗黙の了解としているエルフに対して、干渉したらどうなるのか。
果たしてこれは干渉に当たるのかどうか知らないが、ムドが最初にキッシュに申し訳ない感情を向けたのも、キッシュがエルフと聞いて急いだのもこれが理由だ。
人命救助を咎められる事はないと思うが、エルフの出方など分からない。

急いでエルフのところへ送り届けるか。
もし彼女の傷を見たら、その矛先はキッシュ達に向く可能性もある。
そもそもそこまでたどり着いてコンタクトを取れるのかも不明だ。
けれど、この状態の子をこのままここに置いておくのも、彼女の精神的に支障がありそうな……。



「……う、っく、」
悩んでいたら、 シーツの中から小さく震える嗚咽が聞こえてキッシュは固まった。
まさかの泣かれた。
がしがしと髪を乱しながらマーファに助けを求める視線を投げると、マーファはシーツからわずかに見えている髪をゆっくりと撫でて落ち着かせようとする。
ほんの少し嗚咽が小さくなるのを、さすが……と感心しながらも、どうにかして落ち着いてくれないだろうかと(内心)おろおろしていると、後ろから声が届いた。

「*****」
開いたままのドアの外から早口で紡がれた言葉はキッシュの知ったものではなかった。
振り向けばそこには黒いフードを頭からすっぽりと被った誰かが立っていて、その脇にはにこやかな笑みを浮かべた男性が立っていた。
「*** *******」
フードの男が何かを更に口にすると、シーツの中の嗚咽がぴたりと止んだ。

「……あんた、たしか」
「食堂でちょっと耳にしたもので、お困りではないかなと」
失礼しますね、とフードを連れて中に入ってきた男にベッドの脇を開ける。

ベッドの脇に立ったフードの男が更に何か呟く。
すると、きょとんとした緑の目が外に出た。
「*** *** ****」
男が何か呟く度に、エルフはぴくぴくとその長い耳を動かす。それから。
「……**」
掠れた、小さな声であったけれど。

それは確かに返事だった。



黒い上着から伸びた手が軽く彼女の金色の頭に手を乗せる。
それから立ち上がり、マーファの方へと視線を向けた。
「水を」
「お水?」
「なるべく綺麗なものを。弱ったエルフに、汚れた水は、毒だ」
「わかったわ」
頷いてマーファは足早に部屋を出て行く。
扉の外で様子を覗いていたムドにも何か指示をしているようで、ムドも慌ててその後を追っていった。

エルフから視線を外した男の顔がこちらを向く。
フードの陰から見えた碧に背筋が伸びた。
「……あんた、エルフの言葉がわかるのか」
「少し」
「便利でしょう」
くすくすと笑う男は、初対面の時もたしかこんな風だった気がする。
「連れてきてくれて助かったよ……エリカ」
「いえいえ。たまたま会話が耳に入ってきたものですから。たまたまエルフ語ができる知り合いがいてよかったです」
お役に立てて光栄です、と笑う彼の心中はさっぱり分からない。
凪いでいるというよりも、作り物の白い幕を見せられている気分だ。
それを覚えていたから、一度しか会っていなくても外見と名前がすぐに結びついた。

フードの男が名乗って被っていた布を取った。
金色の髪が露になる。
思ったより美形だった、と驚きを表面に出さないようにしながらキッシュは改めて礼を言う。
「ほんと、助かった。ええと……」
「チェイス」
素っ気なく返される単語に曖昧に頷くと、後ろからエリカが注釈を入れる。
「彼は私と同じ、北大陸の出身なんです。こちらの言葉にはまだ少し不慣れなんですよ」
「ああ、それで」
「元々無口ですけどね」
笑顔で付け足したエリカに、何を言われているのか分かっているらしいチェイスがじろりと視線を向けるがまったく堪えた様子はない。

「チェイス、できればしばらく通訳してもらえると助かるんだが……」
「エルフは人間の言葉もわかる」
「……そうなのか」
「知らないのか?」
「こっちでは、エルフとはあまり関わりがないから」
なら、さっきまで喋らなかったのは単に人間を警戒していたからか。
複雑な気分にはなるが、単身傷ついた状態で親しくもない種族の中に放り込まれたら自分の殻に閉じこもるのも不思議ではない。

「今は環境が変わって、怯えてるだけ――」
言葉を途中で途切れさせて、チェイスがベッドを見下ろす。
キッシュとエリカが視線を追うと、睫を震わせて視線を伏せたエルフが、小さな手で黒いローブの裾を握りしめていた。
「なんだ」
「** ***」
「……訊かれたなら、自分で答えろ」
チェイスの声に少女はゆらゆらと瞳を揺らして、それからおずおずとキッシュを見上げた。
「……サヴァ」
小さな声で呟かれた音は、キッシュの耳でも拾えるものだった。
「サヴァ?」
問い返すと、少女はひとつ頷いて、ぱっとシーツの中へと戻ってしまう。

「名前、聞いたか」
「……あ、ああ」
チェイスに言われてはたと気付く。
まさかこのタイミングで返してもらえるとは思っていなくて理解が遅れた。

慌てて腰をかがめて、ベッドの上にあるシーツの塊に声をかける。
「サヴァ。俺はキッシュだ。ここは安全だから、ゆっくり治せ。痛いとことか、ちゃんと言えよ」
それに応えるように、シーツからちらと目が覗き。
こくりと縦に顔を動かした少女の、まだ不安が多くを占める心の中、少しだけ恐怖が薄らいだのを感じてキッシュは目を細めた。



***

いつの間にかいたエリカ。
そして彼に連れてこられるチェイス。
なんだかんだでサヴァに離してもらえなくてそのまま居座り。

こうして人が 増えていく。