この世には知らない方がいい世界というものが存在する。
それはブラックマーケットだったり非合法な取引をするための会合場所だったりといろいろある。
そしてそれは、生命のために知らない方がいいというものもあれば、健やかな精神状態を保つために知らない方がいいものもある。
総じて「知らない方がいい世界」というのは日常のすぐそばにあるものだ。
ただ、知らないだけで。
<あなたの知らない世界>
ハルがいつものように本拠地の中を歩いていたら、ふと視線を感じた。
刺すような鋭いものではなく、ただ注目されているそれに特に警戒をするでもなく振り向く。
けれど周囲に特に知り合いがいるでもなければ、兵士の姿があるわけでもなく。
いるのはごく普通の一般人ばかりだった。
感じていた視線もすでにない。
気のせいだったんだろうか、とハルは首を傾げると顔を前に戻した。
考えてみればこんな仮面をつけているのだから、誰だって視線くらいは向けるだろう。
ちょっとくらいまじまじと見られているのを感じ取っただけかもしれない。
それ以上は気にもとめずに歩き出す。
壁際で立ち話をしている女性達がやりとりしている封筒の中身なぞ知らぬまま。
クロードとキルベスが食堂で昼食を摂っていると、どこからか見られているような気配がした。
けれど料理から視線を外して視線を巡らせても、賑わう食堂の風景があるだけで。
「おい、キルベス」
「ん?」
「何か感じなかったか?」
「別に。あ、食わねぇならもらっていーか?」
「ほざけ」
伸びてきた手を叩き落としてクロードは食事を再開する。
この賑わいだから、相席できる場所を探していた誰かがいたのかもしれない。
それほど気にする事もなかった。
遠征から戻ってきたばかりで、少し神経が尖っているんだろう。
その後ろの席で、楽しげに会話する少女達の手元にあるものには気付かない。
チェイスは瓦礫が積まれた一角で、銃の手入れを行っていた。
人気がない場所だからと、今はフードを外して普段はほとんど隠れている金髪が顕になっている。
ふと顔をあげて、少し距離の開いた先を捉える。
何かを取りにきたらしい女性の、茶色の髪が目に入った。
彼女はなにやら四角いものを手にし、チェイスに気付くと小さく一礼して去っていく。
あんなところに何を置いていたのだろうかと思いながらも、チェイスは再び銃へと視線を落とす。
そうすればすぐに、彼女の事も箱の事も忘れてしまった。
その正体に思い当たる事もなく。
本来ならば人気の少ない時間帯である酒場の一角を占拠している女性の集団に気付いて、リーヤはカウンターの方へと歩み寄る。
「あらリーヤ、どしたの? 食事?」
「うん」
「簡単なものならすぐ出るけど」
「あー……持ち帰るわ」
背後でひときわ高くあがった歓声に乾いた笑いを浮かべて、リーヤはテイクアウトを依頼する。
かわされている内容については耳にするまい。聞こえない。
ほとんどが女性、ぱらぱらと男性も混じっているその中心に見慣れた銀色がちらりと見えた気がするがきっと気のせいに違いない。
その隣にいる闊達とした茶髪の女性は、普段は夫と共に地下の遺跡にいた気がするが、今日はその手には発掘に必要な機材ではなく薄い紙を何枚も持っているようにも見えるが、自分は何も見なかった。
自己暗示をかけながらリーヤはカウンターで料理が出てくるのを気配を殺して待っている。
触らぬ女性に祟りなし。
極力あの輪には加わりたくはない。
「はいおまたせ」
「どーも。なぁ、ここ普通に営業してて大丈夫なのか?」
「一応準備中の札さげてたわよ?」
「うわ、まじで? ごめん」
つまり見落として入ってきたと気付いて、慌てて謝るが、ウィナノは大丈夫よと笑顔で応対した。
「あんまりお客さんこないから場所提供してるだけだもの。まいどありー」
代金を払って足早に部屋に戻ろうとしたところで、輪の中心にいた黒髪から声がかかった。
「あ、いいところに。ねね、リーヤっていつまでぬいぐるみ抱えて寝てたっけ?」
「俺の幼少期を拡散すんなよシグール!?」
準備中の札を見落とした事を心底悔やんだ。
「――怒られたわねぇ」
「怒られちゃったわねぇ」
「あんまり羽目外すと禁止になっちゃうかなー?」
リーヤが去った後。そして輪が解散した後のこと。
まったく悪びれた顔もなしに笑っているアズミとリリーに、シグールが頬杖をついてそんな不安を口にする。
しかし彼も表情はにやけているのでまったく本気に受け取る気がしないのだが。
「それにしてもシグールの持ってきた「かめら」ってすごいわよね。見たものをそのままに写し取るなんて」
「長時間固定してないといけないっていうのが難点だけどね」
「けど画期的よ。うちでも取り扱いしたいくらい」
値段が値段だから無理だけどね、と一度シグールにその値段を聞いているアズミは笑いながら机の上に置かれた「かめら」の輪郭を撫でる。
シグールが遊び半分に持ち込んだ「かめら」で取られた「しゃしん」はとてもとても優れもので、ぜひ一枚ほしい、という女性からの依頼が殺到している。
「かめら」自体が珍しいために、「しゃしん」自体も決して安いものではないのだが、それでもという声が絶えないのは、普段近くで長々と見ていられない軍の綺麗どころを手元に置けるというお得感があるからか。
もちろん男性から綺麗どころを!という声もあるので、撮影者はアズミ、リリー、シグール、テッドがそれぞれ担っている。
「防水加工ができたら風呂場にも置けるんだけどねぇ」
「女湯には置いたらだめよ?」
「もちろん。女性のプライバシーは尊重しないと」
男性のプライバシーは存在しないのか、というツッコミはどこにも存在しない。
写真の前はちょっとした丸秘情報を出回らせていた彼女達だが、今はそれにプラスしての「しゃしん」のおかげで、以前よりも随分と副収入があがった。
前者の料金についてはほとんど材料提供者のシグールに渡してはいるが。
本人の預かり知らぬところで楽しい楽しい話が女性達の間で回っている事を彼らは知らない。
知っている者はそこで落ちる利益と、実行犯に頭が上がらないゆえに、黙認という形が貫かれており、こうして本拠地の中に存在する裏の世界は、少しずつその勢力を拡大しているのであった。
***
<リリーとアズミが裏で手を組んで情報とか生写真とか売り捌く話>
裏でというか表でというか。
シグールをスポンサーに好き勝手しています、という話に。