<愛に捧げる葬送曲 下>





全身にちりちりとした引きつるような痛みを覚えて、クロスは瞼を押し上げた。
天井――ではない、この石の並びは見覚えがある。
……オベルの遺跡?

覗き込んできた黒髪に手を伸ばして触れる。
潮風にあたってもさらさらのあなたが羨ましいですと言われたが、クロスとしては猫っ毛なきらいのある自分のより、しっかりとこしのある彼の黒髪の方が好きだった。
「シグルド……僕、どうしたのだっけ」
彼は無表情のまますっと身を引いた。
微笑みかけてくれるはずの彼の所作に違和感を覚えて、クロスは上半身を起こそうとする。
「シグルド」
呼びかけて、振り向かない背中を見て。

混乱した。

この背中をもう見ないのだと思った自分が過去にいた。
ああそうだ、あの顔が彼の顔の全てじゃなかった。
もっと老いた顔を知っていた。

どうして。
だって彼はここに。
でもそれは。


「っ……ルックっ!」

思い出した。
今、自分が傍にいる人は彼じゃなかった。
でも、どうして。

「シグルド、どういう、ことなの」
「…………」
彼は応えなかったから、クロスは痛みをねじ伏せて立ち上がってその肩を掴んだ。
「答えて」
「…………」
前に回って相手の顔を覗き込む。
目の焦点がやはりぼやけていて、彼が正気ではなく何かに操られている事を示唆していた。
それでもこの体も顔も体温も彼のものだったから。
「シグルド、僕がわかる? クロスだよ、ラズリルのクロス」
「…………」
薄い唇が少し動く。
クロスはもう一度繰り返した。

「クロスだよ。クロス」
「……ろ……」
「そう、クロス。思い出してく――」
くれた?
続けようとした言葉はあっけなく消える。
見かけよりたくましい彼の腕がクロスを抱いた。
「クロス」
「シグルド……っ」
はっきりと言われた自分の名前に、クロスは涙を浮かべてシグルドを抱きしめる。
心臓の鼓動もこの息も声も暖かさも彼だった。
全て何も違わず、「彼」だった。
「クロス」
痛いぐらいの抱擁を解いたシグルドが、名前を呼ぶ。
「よかった、シグルド、正気に……」

緊張を解いたクロスが微笑みかけて、顔がこわばる。
正気に戻っていなかった。
その目はまだ焦点が定まらぬまま、けれど妙な熱を帯びた様子でクロスをじっと見下ろしている。
「クロス」
名前を呟いてクロスの体は強く引っ張られる。
「やめっ――シグルドっ」
本気で抗えるはずもなく、容易くクロスの体は彼の腕の中に戻されている。
そして、とても自然な動作で顎を持ち上げられて、何をされるか気付いた時にはもう、過去と同じ温もりをその身に受けていた。

「ん――う」
これが他の人物だったら。
容赦なく舌を噛んで突き飛ばして、剣を向けるのに。
彼だから。
たとえ正気がないと分かっていても。
「んっ……んやっ」
口腔の上側を舐めあげられて、クロスは情けない声を上げてシグルドにしがみつく。
それにうっそうと笑ったシグルドは、抱き寄せているだけだった手をゆっくりと動かし、クロスの背中に這わせる。
「あっ――やっ、や、やめて」
やっと拒絶の言葉を口にしても、彼は止めてなどくれない。
「やめて、シグルド……やめて」
懇願してもそれは無意味だった。
何がそんなに不満なのかと問う目でじっと見据えられて、クロスは顔を歪める。
「……ごめん……離して……離してよ……」
切れ切れに呟く彼の目からは涙が落ちて。



だから踏み込んだ時に何が起こっているか分からなかった。
分かりたくもなかった。
「クロス」
名前を呼ばれた、目の前の人よりずっと高い声。
振り向けなかった、自分の顔を見られたくなかったから。
「ルック……こない、で、お願い」
「嫌だ」
すたすたと軽い足音が近づいてきて。
まだ抱きしめている彼の身体にも僅かな緊張が走って。

「……クロスを放せ、シグルド」
冷えたルックの声が耳朶を打った。
それはクロスが聞いたことのない声音だった。
「いますぐ、放せ」
それに返されたシグルドの声も、クロスが知らない声だった。
「断わる」
「――っ、お前はどこから来たんだ! 過去の亡霊!」
激昂したルックの声に、シグルドはゆっくりと瞬きをし。
そして何も言わずにクロスを抱きすくめる。
「……クロス」
「シグ、ルド……」
「そいつはシグルドじゃない、クロスっ! わかってるはずだろ、そいつは違う!」
「違うんだ、ルック……違うんだ、これは本物なんだ、僕には、わかる」
途切れ途切れに言って、クロスはシグルドの腕の中から抜け出そうとする。
だけど彼は簡単に力を緩めてはくれない。
業を煮やしたルックが右手を振り上げる。

どうしよう、とクロスの思考が固まった時だった。



「何をしている」

声が響いた。
相手は逆光でよく見えないがきっと男だ。
「何をしている、早くそいつらを殺せ」
「…………」
シグルドの視線がクロスへ落ちた。
「誰」
ルックの剣呑な視線がシグルドから侵入者へ向けられる。
否、鍵を開けた音がした気がするから侵入者ではないのかもしれないけれど。
「早くしないか」
「……っ」

途端にシグルドがクロスを突き飛ばし、蹲った。
「シグルドっ!?」
駆け寄ろうとしたクロスに、シグルドは震える手で刃を向ける。
あまりの事に思考回路が止まったクロスとは違って、ルックは一瞬で状況を見抜いたようだった。
「悪趣味。傀儡に殺しをやらせるの」
すでに臨戦態勢のルックに、その侵入者は低い声で笑った。
ひび割れたガラスのような声だった。
「便利なものだ。一つ壊れても別のものをあてがえばいい」
「これはどこから引っ張ってきたのさ」

ルックは、この侵入者がどうにかしてこれを「つくった」のだと言ってほしかった。
本物ではないと、本人ではないと。
そうすれば容赦なくこの手にかけられる。
「これは都合よくここ――遺跡の奥より出てきたものよ」
「いせ、き?」
クロスが鸚鵡返しに聞いた。
「人の自我などあっけないもの。たちまちわしに従ったわ」
「……っ!」
息を飲み込んだクロスとは対照的に、ルックは鼻であざ笑って一歩進み出る。
その手はすでに燐光を放っていて、彼が何かしらの魔法を放つ用意ができている事をうかがわせた。

「ぺらぺらとありがとう、二流はだいたいそうなんだ」
放たれた炎の矢は、男の前で消える。
厳密に言えば、前に飛び出したシグルドの魔法で打ち消された。
「さあ、殺せ」
静かなその声に、シグルドはゆるりと構える。
向けられたナイフに、ルックは背中を冷や汗が流れていくのを感じ取った。
肉弾戦はまったくできないのだ、魔法で叩くしかない。
距離をとって魔法を叩き込もうと、半歩下がったルックと、そこに生じた隙を見逃さなかったシグルドが動こうとした瞬間。

「待て」
小さな声をあげて、クロスが立ち上がった。
その動きにシグルドが確かに反応する。
「命令だ、動くな、シグルド」
「なにをしている、殺せ」
小憎らしいほど冷静な男の声に、硬直したシグルドがわずかに手を動かす。
しかし次のクロスの言葉に、完全にその体を硬直させた。
「僕が動くなと命じてる」
クロスは剣を抜いた。
見開かれた双眸に蒼の炎が宿る。

「軍主たる僕に刃を向けるとは、よほどその命惜しくないと見える」
ちゃき、と静かに武器を構える。
その気迫と紛れもない殺気に圧されたルックは、発動しかけた魔法を完成させる事ができない。
「……クロ、ス」
「動くな、と言った」

迷いなく。
まっすぐに。
クロスの剣はシグルドに突きつけられている。

「早くそいつらを殺せ」
「お前は黙っていろ」
鋭い眼光が男を射抜いた。
しかし彼はそれに臆する事なく、逆にせせ笑って言い放った。
「では他の者にやらせるまで。皆の者、殺せ」

その一言と共に、殺気がクロスを取り囲む。
現れた彼らは一様に定まらない視線を持ち、そして手にはそれぞれ武器を携えていた。
「命令に従わぬものも殺せ」
「…………」
襲いかかってきた男たちからクロスを護ろうと、ルックは発動しかけた魔法を放とうとした。
そう、放とうとしたのだ。
しかしそれはならなかった。

なぜなら、ルックの魔法より早く、クロスの左手が闇に包まれたから。


「お前は楽に殺さない」


静かに呟いたクロスの周囲で、襲いかかろうとした男達は一斉に倒れた。
ただ、その中心にそれを命じた男が立っているだけだ。
「シグルド、命令だ。戻ってこい」
静かなクロスの言葉に、シグルドはゆっくりと瞬きをする。
「無駄だ、その心は壊――」

ルックは見た。
嘲笑しながら勝利の声をあげかけた男の胸に吸い込まれるように、ナイフが刺さっていく瞬間を。
根元までしっかりと心臓を突き刺したナイフの軌跡の先には、当然彼がいた。
それに衝撃を受けたのはルックだけではなく、クロスも振り返って彼を見ていた。

「……お、や。あなたの敵だと思いましたが」
やわらかな笑みを口元に浮かべて、シグルドは前のめりに倒れこむ。
地面に膝をついて、荒い息の下で呟いた。
「あなた自身が手を上げる価値など、ない、でしょう」
ナイフが胸に突き刺さった男は声もなく倒れる。
それを突き刺した張本人のシグルドは、突っ立ったままのクロスに笑顔を向けて震える左手を伸ばす。
「すみません、クロス様。ご迷惑をおかけ、し、て」
呟いたシグルドの指先が透ける。
駆け寄れないクロスに彼は記憶に違わないあの優しい顔を見せて。
「そんな顔を、なさらないで、ください。あなたはきっと俺の、あなたでは、な――」


静かにその場から、消えた。

 

 



***
<4主の本気で怒った姿が見たい…ということで。〜4ルクとシグ主が混合。>
 

ここで終わります。後は各自想像です。
シグルドを出すとルックが常にとんでもなく不利でした。