潮風吹き抜ける夜空の下、風に髪をなびかせながら長身の美男子が立っていた。
夜なので船上の明かりは減らされている。
中でも後部甲板に常置された明かりはなく、男が持ち込んだ小さなランタンだけが足元をぼんやりと照らしていた。
黒髪と黒っぽい服の彼は闇によく溶け込んでいる。
物憂げな横顔だけが白くさざ波の音の向こうに浮き上がっていた。
今日は波も穏やかで、月はないが星が空一面に広がっている。
カツンと足音が響き、男の横顔がそちらへと向けられる。
漆黒の目を向けられた足音の主は、戸惑うように足を止めた。
「こちらへどうぞ」
涼やかな声に誘われて、足音の主は男の隣に立つ。
並ぶと二人の身長差はかなりあり、黒と茶の髪は頭一つ分ほど違っている。
扉を閉めれば船内とは完全に隔離される。
見張りの騒がしい声もなく、二人の間には静かな空気が流れた。
ざざざ、とささやかに響く音の中、二人は甲板で手摺に体重を預けている。
沈黙しかないものの、それを苦にしている様子はない。親しい者の間にしか流れない気安さがそこにはあるようだ。
「呼び出してすみません」
「…………」
黒髪の男が微笑んで謝罪の言葉を口に乗せるが、呼び出された方はちらりと視線を送っただけだった。
「どうしてもあなたに……」
言いたい事があったんです、と黒髪の男は告げ、告げられた青年は動かない。
それは続く言葉を待っているようでもあったし、待っていないようでもあって曖昧だった。
「…………」
「…………」
二人は再び沈黙に落ち……呼び出された方、テッドは堪え切れなくなって言葉を搾り出した。
「シグルド……お前な」
「はい」
「その沈黙で俺の命を削って楽しいか……?」
「削られる命があるんですか?」
テッドはガンッと額を手摺にぶつけた。
今日の戦闘メンバーはクロスとテッドとシグルドとリタだった。
一日中海のモンスターを狩った解散時。テッドと擦れ違いながら、シグルドはぼそりと言葉を零したのだ。
曰く、「今夜、後部甲板で」。
シンプルな呼び出しに、テッドは応えるべきか否かでずっと迷った。
正直、この男から呼び出されたという時点で不吉だった。それがかつてクロス絡みの質問を受けた後部甲板であれば尚更だ。
あんな人気のないところに、最近殺気紛いの視線を送ってくる相手と二人きり。
自殺行為以外の何物でもない。
だが行かなかったら後が怖い、怖すぎる。
つまり呼び出しに応じて得る恐怖と、呼び出しを無視して降ってくる災厄のどちらかという究極の二択を迫られたわけだ。
そしてテッドは恐怖と災厄ならば、まだ回避可能な気がする恐怖を選択したのである。
胃に穴が開く前に視線の意味を問い正したかったというのもある。
「で……何なんだ。愛の告白をするなら俺ぁ今すぐ海に飛び込むからな」
「告白、してほしいんですか?」
「してほしくねぇよ。寒気がする」
「テッドとクロス様は恋仲なんですか?」
予告も前振りもなしでばっさりと頭上にピンポイントで問答無用に落とされた大爆弾に、テッドは思わずむせた。
前のめりになって、うっかり海に落ちそうになる。
背中にシグルドが添えてきた片手に押されたら、間違いなく落ちるだろう。
「な……っ、お前、なに言っ……」
涼しい声音で微笑みも交えて聞いてきたシグルドの目はちっとも笑っていない。テッドの首筋に冷たい汗が伝う。
「あの時のテッドに背中を押された気がしました」
現在進行形で押されてます。
「俺は、敵は早い内に潰す性分なんです」
何が言いたい。というかちょっと待て、背中を押す手の力がだんだん強くなっていないか?
「俺がクロス様の元彼に似ていると言いましたよね。ということは、今は違うということです」
シグルドの笑みに、テッドは引き攣った笑みしか返せない。手摺を掴む手に力がこもる。
今手を離したら確実に俺は海に沈む。
シグルドが同じ問いを繰り返す。
「テッドはクロス様と恋仲なのですか?」
テッド は みのきけん を かんじた !
テッド は じこぼうえい を した !
テッド は くち を わった !
「長イ話ヲシヨウ、しぐるど君」
凍りついた口をなんとか動かして、テッドは渾身の力を込めてシグルドの手から逃れる。
手摺にもたれかかる形で腰を下ろし、酸素を貪った。
打ち上がる波でしっとりと床は湿っているが、立ち上がる気力はない。
不甲斐ないと罵るなら罵れ。
俺は今この瞬間の自分の命を優先したまでだ。
星が瞬く。
その位置がゆっくりと移動し、空の様相を変えた頃、テッドは全てを吐き出し終えてその場にぐったりとしていた。
「……というわけだ。わかったか?」
「つまりクロス様とテッドはすでに一度この戦いを経験しているというわけですね」
「まぁそういうわけだ……信じるのか?」
「信じてほしくないんですか? かなり痛い人ですよその場合」
もはや何でもいい、と思いながらテッドは溜息を追加した。
信じてもらえようがもらえまいが、命を狙われなくなればそれでいいのだ。
「嘘を吐いているようには見えませんから、信じますよ。で、俺が元彼に似ているという話ですが」
「そこは俺も詳しくは知らな」
「今更隠し事はなしですよ」
にっこりと笑っているが目が笑っていない。
「シグルド君、その手に持ってる武器はなんですか」
「いえ、口を割らないようなら力ずくでと思いまして」
「ちくしょうなんでこんな奴相手に仏心なんて出しちまったんだ俺!」
後悔しても今更すぎた。
「まぁ、ほぼ想像はついています。元彼に似ているんじゃなくて、俺自身が元彼だった……違いますか?」
「察しがよろしいことで……」
分かってるなら俺を脅す理由はなかったよな!?
「それで俺を避けてたわけですか……確かに複雑かもしれませんね」
「そうだな」
「けど、嫌われているわけではないんですね?」
「それはないな」
「そうですか、それを聞いて安心しました」
微笑んでシグルドはランタンを持ちあげる。
中へ入りかけ、振り返った。
「そういえば最初の質問の答えをもらっていませんでしたね。テッドとクロス様は恋仲なんですか?」
「過去も今も未来も断じて違う」
「そうですか」
最後にもう一度にこりと笑ってシグルドは船内へ入っていった。
一人になった甲板で、テッドは満天の空を振り仰ぐ。
肺の中が空っぽになるまで息を吐き出した。夜風に汗が冷やされて寒い。
「……俺、間違えたか?」
最後に笑ったシグルドがテッドの知っている「あの」シグルドに非常によく似ていた気がする。
もしかしてもしかしなくとも、余計な事をしてしまったのではなかろうか。
そう思ってもすべてが遅い。
なるようになれ、と自棄鉢に吐き捨てて、テッドも船内へと入った。
今夜はとことん飲んでやる。
ガンガンガンガン
翌朝早朝、もらえたばかりの自室のドアを破らんばかりに叩く音でテッドは目を覚ました。
明け方まで飲んでいたせいで、まだ眠い。
「……誰だ」
「ちょっとテッド!」
「俺はまだ眠い」
「起きろ」
ガン、と一際大きな音がして、クロスがかなり本気で焦っているのが分かった。
何かあったのかとさすがにベッドから這い出たテッドは、ドアを開けようと鍵を外しかけ、聞こえた声に手を止めた。
「クロス、そんなに叩いたら手を痛めますよ?」
その声だけで即座に警報が頭の中で鳴り響く。
培われた経験が生きた瞬間だ。
「……そこにシグルドがいるのか」
「さっき来て告白された」
「…………」
開けなくてよかった、と思いながらテッドは無言を返す。
「テッド。シグルドに何したの」
「…………」
ちょっと真実を説明しただけだ。
誓って何もしてはいない……よな?
「なんかすごくシグルドなんだけど」
「なんだその言い回しは」
「昨晩少し話をしただけです。ね、テッド」
「…………」
「テッド、君何を言って」
「はっはっはっはっは……悪い」
低い声で呟いた扉の向こう側のクロスの前に今出ていくほど馬鹿ではない。
テッドは念のため、室内にあった椅子を扉に立てかけ、万が一クロスが軍主権限で扉の鍵を開けさせても中に入ってこれないようにしてから、大きく息を吸った。
「全部吐いた!」
「な」
「俺は自分の命が惜しかった!」
後はお前らだけでどうにかしろ、と丸投げして、テッドはベッドに戻って頭から布団を被った。
クロスがドアの向こうで何か叫んでいるが聞こえない。
とりあえず、ほとぼりが冷めるまで二度寝をかましつつ引き篭ろうそうしよう。