ふと気付くと、薄暗い空間にいた。
開きかけた瞼を再び下ろして、まだ眠いと寝返りをうつ。
そこで、自分が寝ているのがふわふわの布団の上でない事に気付いた。
いつの間に床に落ちたのだろうか。
「…………」
テッドは目を開けて体を起こした。
テッドが寝ていたのは床も何も、地面の上だった。
何かの中なのは分かるが、天井は暗く果てが見えないほどに高い。
窓ひとつないにも関わらず視界が利くのは、いくつも焚かれている松明のせいだろう。
直接地面に寝ていたせいで体がみしみしする。
体に巻き付けていた布を取り去ると、じゃらりと金属音が鳴った。
「…………」
いやいやいやいや待て待て待て待てちょっと待て。
顔を引き攣らせて、テッドは立ち上がって脱いだ布を眼前に広げた。
それは白いローブだった。
裾の部分には炎のような波のような紋様がつけられている。
幾重にも巻かれた鎖。
まるでローブそのものが拘束の証であるような重み。
そのローブを掴む己の素手が視界に入る。
腕をおろすと、ローブが床に落ちてじゃらりと音を立てた。
「…………」
知らずテッドは口元に笑みを形作っていた。
果ての見えない天井を見上げ、思い切り息を吸いこむ。
途切れる事を知らない明かり。
距離間のない闇。
果てのない空間。
鎖の巻きつけられたローブ。
なんの印も刻まれていない右手。
――これ以上考える必要などない。可能性を排除した後に残るたった一つの事実こそが正解なのだよワトソン君。
なるほど、ありがたすぎるぜホームズ先生。
「立て続けに二度目とかどこの鬼畜ゲーだ!?」
テッドの絶叫がどこまでも続く空間に虚しく吸い込まれていった。
誰かが来る気配はない。
当たり前だ。この霧の船の中で生きている人間はテッド一人なのだから。
シグールの話を聞いた時のクロスのいい笑顔に嫌な予感はしていたのだ。
こういう時に当たる勘というのは非常に嬉しくない。察知できるのに回避できないからだ。
シグールの時の記憶と疲労もまだまだ新しいというか、あれからまだ二十四時間経っていない。
どんな耐久レースだ。
五百歳の耐久性を今更調べて何がしたいんだ。
そういうのはまだ若い二百歳共か千歳のオババにお願いします。
一番中途半端じゃねぇか年齢的に。
ずかずかと明かりが続く道を歩きながらテッドは悪態を吐き続ける。
道は細い一本道で、踏み外せば奈落の底へ真っ逆さまだが、そんなヘマはしない。
「いや、したらしたで強制リセットとかになら……ないですよねごめんなさい」
どことも知れない闇に虚ろな目で呟く。
強制リセットの結果二百年後の自分のベッドで目覚めればいいが、九割九分の確率でさっきひっくり返っていた場所から再スタートするだけだろう。
つまり無駄だ。そんな事で貴重な時間を潰すわけにはいかない。あと気力も惜しい。
右手はこの数百年ぶりにまっさらだった。
テッドはまず、この手に紋章を取り戻さなければならない。
かつては厭わしくてたまらなくて、船長に紋章を明け渡したものを取り戻すのにこれだけ急いているのは、二百年の間に愛着がわいたからではない。
一刻も早く紋章を取り戻してここから離脱しなければならない理由があるからだ。
「捕まってたまるか……」
ぎり、と奥歯を噛んでテッドは呻いた。
忘れもしないクロスとの初対面。
霧の船とぶち当たったクロスと、テッドはここで初めて出会った。
その時にテッドは一度は外した紋章を再び宿す決断をするのだが、その直後からクロスはそりゃもういい笑顔でテッドを構い倒していじり倒して連れ回して使い倒して……耐久レースはあの時にもう受けてんじゃねーか!!
とにかく、あんな思いは二度としたくない。
テッドは思い出すのも恐ろしい思い出の数々にぷるぷると首を振る。
霧の船に乗ったままでは、いつか同じ目に遭う。
テッドが共に行く事を拒否しても、今度のクロスは無理矢理にでも船に乗せるだろう。
テッドが巻き戻っている以上、クロスが巻き戻っていないはずがない。
なぜならこれは「天魁星のための二周目」だ。テッドは添え物でおまけで被害者でしかない。
いたいけなゲストができる精一杯の抵抗はなんだろうか。
紋章を船長から奪い返して、とっととここからおさらばする事だ。
そしてクロスがクールークを撃退するまで、どこかに身を潜める。
その場合宿星がそろわなくなるが、二周目だし問題ないだろう。たぶん。
これからのプランを練り、大いなる決意を胸に、テッドは導者の前に立った。
そしてソウルイーターへと言葉を投げかける。
「戻ってこい! ソウルイーター!!」
「なにを……!?」
戸惑う船長の中から赤黒い光と共に、死神をかたどった紋章がテッドの手に宿る。
「短いバカンスは楽しめたか?」
右手に軽く声をかけて、テッドは導者を見上げた。まったく悪びれていない笑みを浮かべて言い放つ。
「わりぃな!」
それと同時にテッドの手の甲が光り出す。
導者の周りに浮かび上がった赤い光はソウルイーターによる裁きの合図だ。
さっきまで紋章を預けていた相手にそりゃねぇよと突っ込む者はここにはいない。
裁きを不意に近い形で喰らった導者は、低い咆哮と共にその輪郭を崩し、空間へと溶けていく。
別に死ぬわけではなく空間の狭間へと戻るだけだ。
最後のひと欠片が見えなくなったのを確認して、テッドは頭を掻いた。
ちょっと悪い事したかなぁ。
一時期身を置かせてもらったわけだし、礼くらいは言っておいてもよかっ……いや、クロスが乗り込んできたらいいようにフルボッコにされただけだ。
なんだ、礼を言われるのはこちらの方だ。
思い直して勝手に納得していると、いきなり足下が揺れだした。
「……へ?」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴと地鳴りのような音がする。
縦にシャッフルされるような振動はどんどん大きくなり、立っていられなくなってテッドは地面だか床だかにしがみつくように体を伏せた。
地震か嵐だろうか。
けど海の上ってこんな風に揺れるものなのか?
手が触れていた地面がなくなった。
一瞬の浮遊感と共に、体は一気に落下を始める。向かう先は……海だ。
何の事はない。導者の力によって具現化されていた船だったのだから、力の源が消えれば船も消えるのが摂理だ。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
海の真っ只中で捕まるところなどどこにもない。
海抜●メートルのところから放り出されたテッドは、盛大に水飛沫をあげて水面へと落ちた。
ぶはっと水面に顔を出して見上げれば、太陽が雲ひとつない青空で燦々と輝いている。
「…………」
きょろりと周りを見渡しても、目印になるような島影は見えなかった。ついでに船の姿もない。
……流木くらいあってもいいと思うのだが、それもなし、と。
「……とりあえず、泳ぐか」
絶望的な状況の中、テッドは前向きに呟いた。
クロスに見つかるくらいなら、海の真っ只中で放り出された方がずっといい。
逃げよう。
とにかく奴から逃げよう。
最後まで見つからなければこっちの勝ちだ。
その一心でテッドはぱちゃぱちゃと漂うような速度で泳ぎ始めた。
欠片一つ残さず消えた船の残骸など当然ないので、何か捕まるものをまずは探さなければならない。
でなければ体力を使い果たしてさすがに死ぬ。
浮きの代わりになるような何かか、岩礁のような登れる何かか。
この際掴まれるような生き物でもいいんだが。
己の運を信じてしばらく漂っていると、やがてテッドは流木を見つけた。
どこかの船から落ちたのか、見事な一本の丸太だった。
その上にしがみついて、テッドはぷかぷかと浮きながら夜になるのを待った。
夜になれば星が見える。そうすれば方角も分かる。
現在地が分からないのは手痛いが、このだだっ広い海で方角を確認もせずに闇雲に移動するよりはましなはずだ。
「あー……暇」
丸太に体を乗せ、手足の先だけ海に漬ける体勢でテッドは呟く。
太陽は相変わらず空にあって、空の端が赤くなる兆候も見えなかった。
もしかすると落ちたのはまだ午前中だったのかもしれない。
まだまだ時間がかかりそうだが、人一人乗っても大丈夫なくらい大きな丸太を見つけてよかった、とテッドはあくまでもポジティブに考える。
最終目的はクロスから逃げのびる事だ。
そのためを思えば、丸太一本で漂流するなど試練でもなんでもない。
ぷかぷか波に揺られていると、視界の端に船が見えた。
何隻かの内の一隻がこちらへと進路を変えてくるのに気付いてテッドは丸太につけていた顔をあげる。
船はぐんぐんとこちらへと向かってきていて、テッドは船の目的が自分自身である可能性に思い至った。
テッドには自覚もそのつもりもないのだが、傍から見れば立派な漂流者である。
見張り番がテッドを見つけて報告をしたのだろう。
もちろんテッドとしては、拾ってもらえるのであればそれに越した事はない。
それにしても、丸太といい船といい、運が向いているんじゃなかろうか。
この調子ならばクロスからも簡単に逃げられるかもしれない。
なんて思った余裕が命取りだった。
「わざわざ助けにきてくれるなんて……な……ぁ……」
だんだんと近づいてくる船の頂で風に靡いている旗の紋様を見て、テッドの語尾が掠れた。
薄青に十字が走り、赤く帆船の絵が入れられているそれは、何度かお目にかかった事がある。
ガイエン海上騎士団のマーク……クロスが所属していた騎士団だ。
助けにきた船が、地獄への案内船になった瞬間だった。
「くるなぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
丸太から海に飛び降りて、テッドは全力で泳ぎ始めた。
騎士団。よりにもよって騎士団。
海賊の方がまだましだった。
あの船に奴が乗っているかはともかくとして、あの船がガイエン海上騎士団のものである以上、行き着く先はラズリルだ。
クロスがラズリルにいる可能性がある限り、テッドは逃げた。
逃げたが、テッドの行動は望遠鏡越しには流木から落ちてばしゃばしゃ必死で助けを求めているようにしか見えないわけで。
そして船の速度に、海育ちでもない人間の泳ぎが勝てるわけもなかった。
いや、海育ちでも船の速度に勝てるわけがないのは分かっている。
「…………」
「大丈夫? 乗っていた船が難破でもしたのかしら?」
「…………」
「衰弱してるのね……もう大丈夫よ」
毛布に包まれてぐったりしているテッドに、カタリナが気遣わしげに声をかける。
ぶっちゃけ消耗している原因は拾われてしまった事からくる未来への恐怖なのだが、傍から見れば漂流の疲れでぐったりしているように見えるのだろう。
毛布を掴んで青い顔をしているテッドは、温かいスープを用意させている女性を見た覚えがあった。
カタリナ。ガイエン海上騎士団の未来の団長だ。
先ほど副団長と呼ばれていたのを聞いたので、つまりは……ますますクロスとの再会フラグが立ち出した。
今すぐ海に飛び込みたい。
「様子はどうだ」
「団長!」
ばっとカタリナが背筋を正した。
近づいてきたのは壮年の男性だった。
所作にそれなりに隙がない。
カタリナが口にした呼称からして、この男性が今の団長らしい。テッドとは初対面だ。
「私はガイエン海上騎士団の団長をしているグレンだ。君は?」
「……テッド」
「テッドか。災難だったな。だが、もう大丈夫だ」
君は運がよかった、と笑うグレンに、地獄への片道切符を手に入れた気分ですとは言えなかった。
彼らは何も悪くない。悪いのはテッドの運である。あるいはシナリオの修正力か。
「私達はこれよりラズリルに戻る。よければ体力が回復するまで騎士団に滞在するといい。その後、君の家のある島まで船を出させよう」
「……直接送ってもらうってのは」
「そうしてあげたいとも思うけど、こちらもちょっと今立て込んでいて。あなたの体調も思わしくなさそうだし、一度ラズリルに来てちょうだいな」
「すまんな」
「いや、まぁ……助けてもらったんで……」
二人して謝られると、善意で助けてもらった手前、テッドも無理を押し通せない。
渋々頷いた自分の判断をきっと半日も経たずに後悔するんだろうなぁと思いながら、テッドはせめて体だけは温めようとスープを受け取った。
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お気づきかと思いますが、テッドの格好は終盤でモルド島近海で発見される「あれ」のオマージュです。