その日は、不思議な香りから始まった。
薄く目を開いて、隣にいるであろうセノへと腕を伸ばす。
ばふ、とシーツの感触に触れて目を開くと、そこに温もりはなくて、セノの方が先に起きているのだと知る。
「……セノ?」
珍しい、と喉半ばまで出かかった言葉を欠伸に変えて、ジョウイは肘を支えに上半身を起こした。
窓の外はかなり明るくなっているが、時刻的にはまだ早い時間だろう。
太陽が昇るのも早くなったな……と思いながら、目を覚ました瞬間から漂う甘い香りの発生源を探す。
それは案外近くにあって、ベッド脇に置かれた水の入った硝子の器だった。
両手で持てそうな、おそらく普段はフルーツの盛り合わせなどを入れるだろう透明な半円の硝子に、水が八分目まで注がれ、掌ほどの大きさをした純白の花が数輪浮いている。
甘い匂いはそれが大元のようで、近づけば蜜のような香りがより強くなった。
「あ、おはようジョウイ」
「おはよ、セノ。これ、昨日の夜はなかったよね?」
部屋に入ってきたセノに気付いてジョウイは顔を上げるとベッドを抜け出す。
すでに身支度を整えているセノに尋ねると、セノは少し考える素振りを見せた後、へへ、と笑った。
そのまま正面から抱きつかれて、ジョウイはそれだけで質問の回答をそれ以上求めるのを止めてしまった。というか脳内から花のことなどすっとんだ。
「ジョウイ、誕生日おめでとう!」
「ありがとう」
満面の笑みで、最高の一日の始まりをつげてくれたセノに、ジョウイもまた満面の笑みを返した。
***
「や、ジョウイ。今年は忙しいからお祝いできなくて残念だね☆」
「相変わらずだな君達は!」
来客に部屋のドアを開けてみれば、あまりに見慣れた顔ぶれにジョウイはずっこけたくなった。
「この時刻は、来客の予定だったと思うんだけど」
「その来客が俺ら」
「…………」
一日の予定を確認しにきた宰相はそんなこと一言も言っていなかったはずだけれど。
最初から、今年はパーティでのお祝いは無理だからって、時間を取れるようにねじ込んでやがったな。
「年に一度の誕生日にそんな怖い顔してたらもったいないよ?」
「誰のせいだ」
「あ、これプレゼントね」
眉間に皺を寄せているジョウイの前に、シグールがよいせ、と取り出したのはボトルだった。
淡く水色がかった瓶の中で琥珀色が揺れている。
酒のようだが、ラベルがない。
「なにこれ?」
「お酒! ジョウイのために特別に作ったんだよー」
「へぇ」
「信じてないならちょっと飲んでみる? ちょっと味見したけど、これがまたおいしくって」
「まだ昼間だばかやろう」
いそいそと栓を抜こうとしたシグールが、後ろからテッドに叩かれていた。
ちぇ、と口を尖らせながら、シグールはまたも持ち込んだ荷物を漁って何かを取り出した。
「あとクロスとルックからも預かってきた」
「……入浴剤?」
ラッピングされた籐籠の中、白く細かな綿袋に白と黄色が透けて見える。
顔を近づけてかいでみると、ふわりといい香がした。
少しかさかさするのは、乾燥させた植物が入っているからか。
「腰痛にいいらしいよ。毎日座りっぱなしだからたまにはいいだろうって」
「美容にもいいらしいぜ」
「あ、うん。ありがと」
「気に入らなかった?」
「いや、なんか珍しい贈り物だから、たまにはこういうのもいいなって」
酒は誕生日ならずともお互いやり取りすることもあるが、入浴剤の類はもらうこともなかったし、クロスも作っていなかったはずだ。
「なんか、一度作り出したら面白かったらしくて。他にも石鹸とかも作るんだとか張り切ってた」
「あいつはどこまで極める気だ」
笑いながらジョウイはメイドが淹れてきた紅茶を口に運ぶ。
いつもと少し違う風味は新しく買い求めたハーブティーらしく、朝一番で味の良し悪しを尋ねられた。
「ん、茶葉変えたか?」
「ああ。気に入らなかったなら淹れ直させるけど」
「おいしいよ。ねぇテッド?」
「おう」
セノもカップを持ちながらにこにこと笑っている。
……三人そろって、なんとなく、にこにこというか、にやにやしているように見えたのは気のせいだろうか。
***
結局予定を大幅にオーバーして滞在していった二人のおかげで、職務が全て終わったのは本来の夕餉の時刻をかなりすぎてのことだった。
食事を取り、クロスにもらった入浴剤を早速落として風呂に浸かった後、冷やしておいたシグールからの酒を前にする。
ボトルの栓を抜いてグラスに注ぐと、果実とは違う甘い芳香が漂う。
「何のお酒だろうね?」
「早く飲もうよ」
なぜか急かすセノに、セノも気になっているのだろうと、セノのグラスにも、少なめに酒を注ぐ。
口に含むと甘い香りが一層強まった。
「あまくておいしいー」
セノも上機嫌に口をつける。
たしかに美味しい。果実酒ではなくて、どちらかというと、昔飲んだバラ漬けの酒に似ているけれど、それともまた違う。
「おいしいけど、何の酒だろ」
「シグールさんがね、ジョウイのために作ってくれたんだって。気に入ったら来年もまた作るって」
「……商用じゃないの?」
「うん」
こくこくと杯を傾けるセノは幸せそうだ。
けれどジョウイにしてみれば、あのシグールが、商売でなしに酒を作る――ましてやセノ曰く「ジョウイのために」らしい――など考えられなかった。
ほわほわと笑いながら、セノは一日分の秘密を暴露する。
「誕生日ね、何にしようかなって思ったんだ」
「……うん」
「それで、一生懸命考えてね。皆にお願いしたんだ。それで、城の人達はセージで、シグールさん達がスイカズラにしてくれるっていうから。僕はクチナシにしようって思って。けど、クチナシってすぐ枯れちゃうから切るのもったいなくて」
「…………」
セノの口からぽんぽんと出てくる花の名前にジョウイは目を瞬かせる。
城の皆って。シグール達って。
手元のグラスに視線を落として。
それから、入浴剤に、紅茶に――朝からベッドの脇で、水に浮いたままの花へと視線をやる。
「お誕生日、おめでとう。ジョウイ」
目尻を赤く染めて微笑みながら、二度目の祝福を告げたセノに、ジョウイはただ頷くしかなくて。
――セノが寝てしまった後、図書室へ行ってランプの灯りの下で机に突っ伏すことになるのは、この二時間後のことだった。
***
6月30日の誕生花。
コモンセージ(紅茶):「知識」
スイカズラ(酒・入浴剤):「友愛」
クチナシ(切花):「幸せを運ぶ」「私は幸せ」
というわけで今年は誕生花でいこうかな、と。
……ジョウイのこのチョイスがいかに神がかっていたかは、残りの人達を調べる上で思いました。
完遂できるかな!