「、はくしっ」
「完全に風邪ですね」
ヒクサクの寝室にて声をかけるササライの目は、上司を心配する目……というよりは出来の悪い親を見る呆れに近いものを含んでいた。
その理由を十分に理解しているので、ヒクサクはそれを甘んじて受けながら、淹れられた薬湯を口に運ぶ。
昨晩はハルモニアには指折りの、雲のない美しい夜だった。
しかも晴れた空に浮かぶ月が満月となれば、月見に興じる国民も多かっただろう。
その趣を理解してか、夜でも光輝く神殿もその夜ばかりは灯りが抑えられ、都全体が夜の闇に包まれた。
けれど、代わりに月光が柔らかく都を包み、いつもとは違う趣のある光景が広がっていた。
その町並みと月を眺めるのが楽しくて、ついつい夜更けまでテラスで楽しんだヒクサクは、翌日から喉がいがらっぽいとは感じていたものの、そのまま何の対策もせずに数日普通に仕事に打ち込み続け、その結果が今に至る。
咳が出始めたあたりで忠告したササライの言葉をきちんと聞いておけば、少なくとも今の視線から棘が三割は減っていたに違いない。
「ちゃんと養生してくださいね」
溜息混じりに言われ、わかっている、という意を込めて首を縦に振る。
これ以上こじらせて寝込むのは避けたいし、部下にうつすのもよろしくない。
薬湯をすべて飲み終えると、ササライが空になった器を回収して盆に載せた。
「まさか早々に役に立つなんて思いませんでしたよ……」
「なんだって?」
「いいえ。ちょうどよく咳止めの漢方があってよかったですね」
にこりと微笑むササライの笑みがどことなく違和感があったが、続いた言葉に意識はそちらへと持っていかれた。
「おわかりかと思いますが、当然今日のリーヤのお泊りはなしですので」
「…………」
「あんた、リーヤに風邪うつす気ですか」
「わかってるよ」
視線に込められた温度が数度下がった。たいがいササライも叔父馬鹿だと思う。
誕生日だから、と前々から泊まりがけで遊びにきてくれる予定だったのが反故になってしまったのは残念だが、風邪を移すよりかはいい。
それでも気落ちは免れず、もぞもぞとベッドにもぐりこんだ。
熱はそれほど高くないが体温が移ったシーツは温かく、直に眠れるだろう。
「いつまでも若い気分でいてもらっては困るんですから。ちゃんと自愛してくださいね」
「ああ」
「様子見にきた時にちゃんと休んでなかったら、ベッドに縛り付けますので」
「…………」
この子の口の悪さ、だんだんルックに似てきてないかなぁ。
湯冷ましの入った瓶を残して部屋を出て行ったササライを見送りながら、兄弟って似るものなんだなとしみじみと思った。
***
案の定、直に眠気はやってきて、久しぶりに寝すぎると感じる程に長く眠った。
目を覚まし、室温とほぼ同じくらいになったぬるま湯で喉を湿らせていると、ササライが小さくドアを開けて顔を覗かせた。
「起きました?」
「ああ」
「何か召し上がれそうですか」
「それほど空腹は感じていないが」
ずっと寝ていただけなので、燃費の悪い体は特に何も訴えてこない。
そうですか、とそれだけ残してドアを閉めたササライは、しばらくすると何か硝子の器を持って戻ってきた。
「リーヤとルックから、お見舞いです。手作りだそうですよ」
喉が痛くても食べやすいようにだそうです、と手元に差し出された小ぶりの器に入っていたのは、アイスクリームだった。
薄く茶色がかったソースがかかっている。ところどころにある細かく砕かれた粒は何かの木の実だろうか。
「この時期だと氷を触るのは冷たかったでしょうね」
「風邪を引かないといいんだが」
「クロスとルックがいるんだからそこは大丈夫でしょう」
枕元に置かれている湯冷ましの瓶を交換してササライが微笑む。
「早く元気になってね、だそうですよ」
「そうだねぇ」
心遣いに胸がじわりと温かくなるのを感じながら、柔らかい白い塊をスプーンですくう。
本来の甘味をシロップの焦がした苦味が抑えてくれていて食べやすい。
「おいしいね」
「直接会った時にちゃんと感想をどうぞ。咳止め薬のお礼も言ってくださいね」
「……ん?」
「先程飲まれた薬湯に入っていた咳止めの漢方。あれ、クロス達からの誕生日プレゼントですよ」
早速役立ちましたね、と笑うササライに、ヒクサクはただ苦笑いするしかなかった。
***
「それはそれは。よかったですね」
一連の話を聞いたレックナートは、くすくすと口元を隠して笑っている。
「それで、その留め金がササライからですか?」
閉じられた瞼越しに、それでも彼女の『視線』がどこに向くかくらいは分かる程度の付き合いの長さだ。
肩口……肩を覆う布を止めている意匠付の金具は、全快した後にササライから改めての誕生日祝いとして受け取ったものだ。
陶磁の土台の上に幾重にも花びらを重ねる桃色の花が数厘描かれ、上から色硝子をはめ込んだ装飾品は、一見女性が喜びそうなものだが、ササライが自ら特注で作らせたものだというのはササライの部下からこっそり聞いた。
なぜ花をあしらった装飾品を送られたのかはまったく理由が分からないのだが。
「あまりこういう意匠は身につけないから不思議な気分だけれどね」
「あなたの顔なら不自然でもないでしょう」
「……そうか」
それは暗に女顔だと揶揄されているのだろうか。
しかし、ルックを思うと反論もあまりできない気がして、ヒクサクは紅茶で文句を喉奥に流し込んだ。
意匠自体は気に入っているし、ササライが自分のためにわざわざ注文したと聞けば愛着も沸くというものだ。
「それで、何の花なんですか?」
「ササライに聞いても教えてくれなくてね。詳しい部下に聞いたら、コケバラという薔薇の一種らしい。あまり市場には出回らない、珍しいものらしいよ」
「そうですか。ササライが」
「……何か?」
「いいえ」
含みのある物言いに尋ねれば、相変わらずレックナートは笑うばかりだ。
これ以上掘り下げようとしてもはぐらかされるのは目に見えていたので、話題を変えることにする。
「そういえば、今年は君からはないのかな」
「あら、もう渡しましたけれど」
意外にも首を傾げられて、目を瞬かせる。
今宵の茶会、彼女は特に何も持ってきていなかったし、ササライにこっそり何か渡していたわけでもない。
覚えがないと眉を寄せるヒクサクに、レックナートはミルクのポッドの隣に置かれている小瓶を指差した。
それは先日、アイスクリームの上にかかっていたシロップで、紅茶やコーヒーに入れても香りが深まるのでここしばらくの味代わり用品として愛用していた。
レックナートにも飲ませてみようと、今宵も用意させたものだが。
「これ、私からのお見舞いと誕生日の贈り物ですよ?」
「…………」
「アンチエイジングの効果もある一品です。ササライから聞いてませんでしたか?」
「……必要なのは私より君の方じゃ」
「何か言いました?」
送り主を言わなかったササライへの恨み言を胸中に押し込めながら呟いた不用意な一言は、凄みのある笑みで黙殺された。
***
クロスとルックとリーヤは咳止め薬で紫苑。花言葉は「遠方にある人を思う」「思い出」「君を忘れない」
ササライはブローチでコケバラ。花言葉は「崇拝」「尊敬」
レックナートはシロップでハシバミ。花言葉は「和解」「調和」