<転換>
顔をさげると、耳にかけそこねた髪が垂れる。
それをかきあげるヒクサクを見て、ササライは何気なく疑問を口にした。
「ヒクサク様、髪、切りませんね」
ササライやルックと同じ薄茶の髪は、背中まである。
夏場になるとさすがに暑いのか後ろで括っていたりするが、基本的に流されたままだ。
邪魔にならないのだろうか、と訊ねてみると、案の定邪魔だと返答された。
癖がない髪は、耳にかけても、どうしても落ちてきてしまうのだ。
ペンを置いて、ヒクサクは椅子の背にもたれる。
それを合図にササライは机の上の書類を手にとって内容を確認すると、今日の分はこれで終了ですと告げた。
横髪を手にとって眺めているヒクサクが小さく溜息を吐いた。
「いい加減切るべきか」
「理由があって伸ばしていたのでは?」
「そういうわけではないよ」
苦笑気味に返して、そうだなぁと少しばかり懐かしい思いに駆られた。
特に何かを思って伸ばしていたわけでもない。
ただ、長い方が威厳があっていいんじゃないかと昔言われた事があったから、その実いじって遊びたいだけだろうと分かっていながらも、日々にかまけて伸ばしてしまい、そのままだった。
本格的に鬱陶しくなった時に自分で揃えることはしても、短くする気にはならなかった。
「切るなら人を手配しますが」
「いや、いいよ」
「そうですか」
それ以上の会話は続けず、ササライは退室する。
一人になった部屋で、何の気なしにくるくると指に髪を巻きつけてみた。
それはするりと解けて落ちて、ヒクサクはどうしたものかなと目を閉じた。
昔、そういう話があった。
久々に晴れ間を見せたハルモニアの空に、ヒクサクは宮殿の裏手にある森に散歩に出た。
昔は天気など気にすることはなかったのに、気付けば天気のいい日には外に出るようになっていた。
数百年変わらなかった事が、ここ数十年で少しずつ変化している。
その変化を喜ぶべきなのか厭うべきなのか、いまだふんぎりがついていなかった。
朝露を含んで湿った空気を吸い込んで、ヒクサクは深く息を吐く。
ふと、奥まった所に花が咲いているのを見つけて、ヒクサクはそちらに足を向けた。
茂みの隅にひっそりと咲く赤い花は、これから厳しい冬に向かうというのに、花弁をしっかりと広げている。
このままここに咲いていても、種を結ぶ前に寒気にやられてしまうだろう。
しかし遅れ咲きながらもしっかり大地に根を張っているそれを摘み取るのもどうかと思い、ヒクサクはしばらく眺めた後、そろそろ戻ろうかと踵を返した。
くん、と頭が引っ張られる。
上を仰ごうとすると、頭の後ろ部分に僅かに痛みを感じた。
どうやら茂みを覗き込んだ時に、上の枝に髪が引っかかってしまったらしい。
髪を掴んで軽く引いてみても、細い枝の数本にからまっていて、ほどける様子はない。
さてどうしたものかと懐をさぐると、護身用の短剣が出てきた。
「枝……を切るのも面倒だな」
なにより枝まで手を伸ばすと、上手く視界が効かない。
しばらく考えてから、ざくり、と短剣の刃を入れた。
残ったのは無傷のままの枝とそれにからまったままの髪。
中途半端な長さになった部分を触って、このまま帰ったらササライに怒られそうだと小さく笑みを零す。
昔はササライはヒクサクを怒ったりしなかった。
今は容赦なく怒るし下手すると叩かれるし、どちらが上司なのか分からない事もしばしばだ。
「まあいいか」
随分と不恰好になっているだろう自分の髪をそのままに、ヒクサクは宮殿へと戻る。
怒られながら、どうせだから髪もササライに整えてもらうのもいいかもしれない。
ササライに怒られるようになったのも、気まぐれな知人の来訪を楽しみに思うようになったのも、髪を短くしたのもすべて変化だというのなら、それもまた悪くない。
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髪を切る話を普通に書いたと思っていたら、人気投票の期間限定SSでした←