<巡会>
それは予期せざる出来事。
彼女は唐突に、虚空から現れた。
ただし無音であったわけではない、その登場は空間を切り裂き、ヒクサクが張る結界をずたずたにするものだった。
だからヒクサクは、その結界を張った本人だったからこそ気がついた。
世界が裂かれた音を聞いた。
「……誰だ」
動じはしない。それがこの世界の支配者たる彼の態度であるべきだから。
「――我はバランスの執行者。盲目の道標。星見の魔女」
黒髪を背中に流した魔女は言った。その両目は硬く閉ざされている。
その右手にある気配に、ヒクサクは僅かに瞠目した。
「門の一族、レックナート……」
この場所には強い結界が張ってある。
ヒクサク自らが張った強力なものだ。ここに誰も入り込まないよう。
それを破ってきたということは、彼女の実力をヒクサクは見誤っていたことになる。
それらすべての動揺を殺して、ヒクサクは彼女へと問うた。
「何をしにきた」
「その手にある物騒なものを下げたら話しましょう」
「…………」
ヒクサクは無言で短剣から手を離した。
それを失っても、この場所にいる限り、まだ彼には多くの武器が残されていた。
対してレックナートには何があるだろうか。
再び問う。
「何をしにきた」
「警告です」
バランスの執行者。門の一族の生き残り、真の紋章の継承者、レックナート。
彼女がなぜハルモニアへ。あまつさえその頂点に立つヒクサクの元を訪れたのか。
ハルモニアは真の紋章を集めている。そこへ足を踏み入れる事がどれほど愚かな事であるか彼女は理解しているのだろうか。
表情の浮かばない顔からは、何も読み取れない。
「警告、か。ありがたいな。聞こう」
薄い笑みを浮かべて言いながら、ヒクサクはレックナートとの距離を測った。
この場に侵入できたのには理由があるはずだ。
その理由を探り消し去れば、足掻く術はない。
今まで彼女を泳がせていたのは、ハルモニアにとっての脅威でもなく、居場所も分かっていたからだ。
その気になればいつでも捕まえられる。
だが結界を破ってくるというのは、その見解を改めるには十分な要素だった。
レックナートは緩やかに口を開く。
「ファレナに手を出すのをおやめなさい」
「ほう?」
ファレナ女王国。ここから遥か南に位置する、豊かな水に育まれた美しい国。
あの国の頂には太陽の紋章がある。
王家には、それと眷属である黎明の紋章と黄昏の紋章も管理されていた。
その片方が失われ、太陽の紋章は人に宿され、国の秩序が乱れようとしている。
今まで厳重な管理の中で閉じ込められていた真の紋章を、この動きの中で手に入れようと、ハルモニアは水面下ですでに動き出していた。
「なぜだ?」
「ファレナだけではありません。赤月帝国、都市同盟、ハイランド王国――手を出してはなりません」
「面白い事を言う」
「星が動きます。大きく、哀しいほど。今後二十年で北大陸の勢力図は塗り替えられるでしょう」
「ハルモニアは揺るがない」
ヒクサクは冷笑した。
この国は磐石のもの、永遠に続かんとしている施政、国に従順な民、黙っていても回ってゆく国家。それを築くのにどれほどの時間を費やしたか。
たとえ星の動きであっても、それを歪めることはできない。歪めることは許さない。
「だから忠告に来たのでしょう」
溜息を吐かれた。意外な反応にヒクサクは眉を上げる。
魔女はそこに佇んで、僅かに微笑んでいるようにも見えた。
彼女の顔はまっすぐ前に向けられていたのに、今はヒクサクの方を向いている。
「磐石などない。永遠などない。この大陸はこれから荒れる。下手によその国にちょっかいを出すと失敗しますよと、警告してあげているのです」
浮かべた笑みはどんな感情なのか。
「あなたにとって、この国は守るべきものなのでしょう」
「…………」
ただただ淡白にそう言って、レックナートは優美に一礼した。
「それではごきげんよう」
ヒクサクは無言で彼女が去るのを見送る。
逃したという悔しさはなかったが、遊ばれた気はしなくもなかった。
彼女が危険を冒してまで結界を破り告げたのは、たったそれだけのためだったのか。
この大陸はこれから荒れる、下手なちょっかいは出してくるな、と。
ハルモニアが他の国にちょっかいをだせば、それは手痛い失敗へとつながるという、警告を超えた脅しだった。
「生憎、私は予言を信じないな」
すでに魔女がいない虚空に向かってヒクサクは返した。
「それを信じているのなら、とっくに私は、死んでいる」
未来が見えていたらきっと安心して死ねるのだろう。
全力を尽くして国の平和に役立てたと胸を張って。
それが見えないから。分かるのは百年も二百年も後になっての事だから。
どんなに磐石な体制を作っても。
どれほど強大な軍を整えても。
永遠の安政を得られないから、こんなに永く生きている。
***
出会い編の割には短いしシリアスですごめんなさい。