<謳恋>
馴染んだ椅子にゆったりと座って、ヒクサクは目の前の光景に目を細めた。
薄いカーテンから差し込む柔らかな陽射し。
窓際に設けられた机の上にはふたつのカップと焼き菓子。
フードを取り去った黒髪の女性は、自分の前に置かれたカップにそっと口付け、お気に召したのか口元に笑みを浮かべた。
その髪には、昔贈った髪飾りが今もついている。
小さく息を吐いて、いい加減耳にたこができるほど聞かされた、部下兼息子の言葉を反芻する。
いつまでもそんな中途半端な状態でいないでください、とか。
側で見ていてこっちがもどかしくなるくらい奥手なんですから、とか。
最近はもう、好きにしてくださいと半ば諦め顔で言われるが、その実思っている事は前とあまり変わっていないのはなんとなく読み取れていた。
別にのらりくらりと交わそうとしているつもりはない。
その気がないわけではないし、向こうとしてもただの話し相手としか思っていない……わけではないと思いたいのだがそこのところはあえて深く考えないようにしていたが、おそらくは。
それでも、なんとなく、時期を逃してしまっている。
「どうかしましたか?」
視線を感じたのか、小さく漏れた笑い声に気付いたのか、レックナートが首を傾げる。
頷いて、ヒクサクは笑いを含んだ声で答えた。
「ああ、昔、君に盛大にお茶をふっかけられたのを思い出したよ」
「随分と昔のことを引き合いに出してきますね」
「忘れられることでもないだろう?」
「もったいないことをしました」
それは服にかかっているのだろうか紅茶にかかっているのだろうか。
どちらにせよヒクサクに紅茶を引っ掛けたこと自体は悪いと思ってないのだろう。
今更謝罪をされるとも思っていないので、ヒクサクは皮肉気に言うだけだ。
「おかげであの後、ササライに思い切り顰め面をされた」
「やはりあの服はだめになりましたか」
「すっかり染みになってしまったからね」
苦笑して、焼き菓子を口に入れる。
レックナートが持参してきたそれは、予想に違わずクロスのお手製だったようで、口の中でほわりと溶けた。
「あれから少しは成長したかな」
「そうですね」
「もう、砂糖の入った紅茶をかけられずには済みそうか?」
「そうですね……」
思案気に言って、レックナートはまだ半分近く中身の残っているカップを揺らす。
ゆらゆらと琥珀色の液体が揺れて波紋を作った。
その底がヒクサクに向けられる気配はない。
ヒクサクは指を組んで、窓の外を見る。
ハルモニアでは珍しい陽光の日。
国に太陽の光が差しこむように、自分の太陽が彼女だとか歯の浮くようなことを言うつもりはないが。
どちらかといえば、月の方が彼女には似合うだろう。
けれど、そんな例えよりも、こうして穏やかな日差しの下で隣にいる現の方が大切にしたかった。
「私達の関係は、人様から見たらひどく歪に見えるのだろうけれど」
ぴたりと一瞬レックナートの動作が止まり、下ろされかけていたカップが再び持ち上げられる。
それを視線で追いながら、ヒクサクは目を細めて尋ねた。
「君はいつまでも、こうして私と席を共にしてくれるかい?」
「……そうですね」
くい、と仰いでカップの中身を飲み干し、受け皿に置いたレックナートは優雅に微笑んだ。
「合格点、といったところでしょうか」
「――そうか」
安堵したように息を吐いて、ヒクサクはポットに手をかけた。
そんなやり取りがいつまでも続けばいいとらしくない事を考えたのは、口にしないでおく。