<続・花葵>
『裏の森にいるので迎えにきてください。』
「…………」
空っぽの部屋を見回してササライはもう一度机の上に置かれた紙を見た。
手に持っているのは書類、それも機密モノだ。
基本的に神官将とヒクサク以外は見てはいけないものだ。机の上に並べられて放置されたままのそれらも同じく。
まあ、部屋にはヒクサク付きのメイドすら許可なしでは入れないから、放置してあるのはこの際目を瞑るとして。
『裏の森にいるので迎えにきてください。』
何度見直してもその文章は消えない。
この字は、明らかにヒクサクのものではない。
重要書類、しかも書き終えたそれをメモ用紙に使ってしまうような彼の知り合いは……。
……考えないでおこう。
一瞬無視する方向に走りかけたササライだったが、手にしている書類に意識を戻して小さく呻いた。
これらは今日中に決裁をもらわないといけない。
でなければ部下総出で今日も残業決定である。
ササライは独身だし家族もいないし別にいいのだが、久々に定時に帰れそうだと家族サービスを意気込んでいる妻子持ちは家に帰してあげないとかわいそうだ。
ここ数日激務だったし。
――というわけで部下思いのササライは、踵を返すと書類はそこに置いたまま、部屋を出て急ぎ足で城外へ続く道を進んだ。
階段を下り廊下を曲がり、裏手の森へ向かってゆく。
ヒクサクがなぜレックナートを放置しておくのかササライには理解できない。
追い出すわけでもなく捕縛するでもなく、相手をしている事になにか意味はあるのだろうか。
……たしかに、レックナートに手を出すとどこかの六人がちょっかいをかけてくるとも限らないから、捕縛はできないにしろ、追い返す事はできるはずだ。
そうしないヒクサクは、むしろ脅されているのではないだろうかという思いすら沸いてくる。
ヒクサクを脅せるような材料がレックナートの手元にあるとは考えにくいが、なにしろ結界をほいほいとすり抜けてくるような相手だ、何を持っているか判断するのは安易すぎる。
心なしかササライの歩調が速まる。
もしそうなら、助けなくては。
ヒクサクはこの国にとっても、自分にとっても大切な人であるのだから。
念のため森の入口で立ち止まり、紋章の準備を整えて一呼吸する。
かすかな波長で彼の居場所はわかるし、どうやらレックナートも側にいるらしい。
心の準備を整えて、ササライはなるべく音を立てないようにひっそりと気配のする方向へと歩み寄る。
無論向こうもこちらの接近に気がつくだろうが、正確な距離まではわかるまい。
木々の奥に森ではありえない色彩が見えて、ササライは僅かに目を細め、忍び寄る。
人影一つ。草の上に座っているあの黒髪はレックナートのものだろう。
ハルモニアには珍しく晴天だからか、フードは取り去られていて。
…………………………………………………………。
その瞬間、ササライの思考が綺麗にフリーズした。
しかし、彼とて伊達に百年以上生きてているわけではなく、色々な意味での自己防衛のためだったフリーズは僅か数秒で解除され、明晰な頭脳は状況分析を始めてしまう。
この位置からだとよく見える、草の上に腰掛けたレックナート。
彼女の膝の上に頭を乗せているのは……見慣れた服装、見慣れた顔。
……見慣れない表情。
「…………」
こういう時の行動マニュアルなんて、この世には存在しないだろう。
ササライの思考によぎったのはその一文で、どうすればいいかわからなくなった彼は低くうめくとその場にしゃがみこんだ。
「……夢だ」
なにが夢なものかと僅かに稼動している理性が痛い。
恐る恐る顔を上げて見やると、先ほどと寸分違わない光景が。
いや、違う。
さっきとは違う。
レックナートがヒクサクの頭をなでている。
「……ぁぁぁ゛」
頭を抱え、必死にその状況になにやら説明をこじつけようとしていたササライへ、くるりと盲目の視線で見回した彼女が朗らかな声をかけた。
「ササライ。迎えに来てくれたのですね」
「……え、え」
「もう少し寝せてやってください」
「……どうぞ」
気付かれていた事よりも、その気遣いが痛い。
穏やかな風に吹かれて眠る上司。
彼が頭を預けているのは確か公式には敵と分類されるはずの女性。
そういえば幾度もお茶に来ていたとか。
…………。
「……その辺をうろついていますので」
そう声をかけると、レックナートは頷く。
二人の姿がどう足掻いても見えない位置まで走ったササライは、息切れするのを必死に整えながら、木の幹に頭をガンと打ちつけた。
……つまりそういうことか!?
そういうことだったんですかヒクサク様!?
だから結界の強化もしなければ捕縛もしないし追い出したりもしないで毎回お茶会とかに付き合ってたりしたんですか!?
知ってしまった僕は今後どうやって接すればいいんですか一年間くらい休暇を取って姿を消した方がいいんですか!?
ガンガンゴン
「……はぁ」
すみません、僕とりあえず数週間休みます。