<花葵>
動かしていたペンを置いて、眉間の皺をほぐす。
ここのところ、妙に忙しかった。
取り立てて大きな事件はないものの、塵も積もれば山となる。
むしろ、それ故に細々と書類が回ってきて仕事が増えているような。
一年の内のわずかな暖かな期間をこのまま部屋で過ごす事になるかと思うと、少々腹正しい。
……暖かくなると奇行に走る者が増えるというが、そういう事か?
「忙しそうですね?」
「見ればわかるだろう」
先程から現れていた気配の持ち主に視線を向ける事なく答えて溜息を吐いた。
忙しい、ここ数日まともに休む時間もない。
普段なら姿を現すなり茶を出せと要求してくる彼女が口を出さないくらいには疲れていた。
机の上の書類がようやく一通り片付いたのを見て、しかしこれからまた出てくるだろう書類の山を想像して顔を顰める。
ササライの事だから、わざと多少時間を空けてやってくるだろう。その間に少しだけ休もうか。
椅子に座ってこちらを向いているレックナートを見て、ヒクサクは苦笑めいた笑みを浮かべる。
「というわけで、さすがに今日は君の相手をしている時間はないんだ」
来てもらって悪いけれどね、と言うのはいささか皮肉めいているだろうか。
事前に予定を組んでいるわけでもないので、ヒクサクが謝罪する必要はないのだが、あまりにも当たり前となりつつあった来訪
手段に、ヒクサクもすっかり馴れきっていた。
レックナートは無言のままヒクサクを見つめ、おもむろに立ち上がるとヒクサクの前に立った。
机上に転がっているペンを取って何やら紙に書き付ける。
……それは今終わったばかりの書類なんだが。
ヒクサクが何を書かれた文字を読み取る前に、レックナートの転移によって移動させられていた。
転移は初めての経験だったが、一瞬の揺らぎを感じたと思えば、眩しいほどの光を閉じた瞼の裏に感じた。
薄暗い室内に慣れた目を細めて、ヒクサクは辺りを見回す。
森のどこからしいそこは、周りを木に囲まれた場所で、木の枝には薄桃色の花がついていた。足元には若草が生えていて、その合間には黄色や薄紫の花をつけているものもある。
ハルモニアではほんの僅かな時期しか見られない光景だ。
「……レックナート」
「休憩なんでしょう?」
それはそうだが、と口を歪めてヒクサクは押し黙る。
休憩で外に出るなら普通に足で出ればいいだろうに。
しかし、それではここに来るまでにかなり時間を要したかもしれない……宮殿の位置がいまいち把握できないから分からないが。
空を見上げれば、珍しい青空が拝めた。
その端に宮殿の塔の一部を見つけて、思ったよりかは近場らしいと判断できた。
さすがに国内から出るのはまずい……とレックナートも分かっているだろう。
その場に座って花を弄り始めてしまったレックナートに溜息をついて、ヒクサクは木に近寄って花をしげしげと見つめる。
どうせレックナートの気が済まなければ帰れないのだ、この際こうして花を愛でるのも悪くない。
ついでだからササライに花でも摘んでいってやろうか。
誰もいない執務室を見て頭を抱えている部下を思いながら小さく笑う。
こんなにのんびりしたのは本当に久しぶりで、人為的でない暖かさは疲れた体に睡魔を呼び寄せるには十分だった。
ふぁ、と小さく欠伸を漏らす。
「ヒクサク」
呼ばれて振り返ると、レックナートが何やら手招きしていた。
近寄ると、ぽんぽんと自分の膝を叩いて微笑む。
「なにかいたのか?」
「疲れているんでしょう?」
「…………」
おそらく膝枕の意思表示だとは思うのだが、それは、どうなんだろう。
実年齢は言うに及ばず、外見年齢も二十を越えているのに。
説明しても分かってもらえなさそうなので、この際諦める事にする。
どうせ誰も見ていないのだ。
疲労が勝ったというべきか、レックナートの付き合いに諦めと達観が必要だと慣れたのか、ヒクサクはレックナートの膝に頭を乗せて横になった。
背中に草の感触があたる。
降り注ぐ陽光は穏やかで、鼻を擽るのは甘い花の匂い。
「……ひさしぶりだな」
「なにがです?」
「膝枕をしてもらったのは、子供の時以来だ」
何百年前の話ですかと頭上から笑い声が聞こえた。
釣られて笑って、ヒクサクは落ちてくる瞼を閉じまいと瞬きをする。
「少し眠ったらどうです?」
「遅くなるとササライに大目玉を喰らう」
「それなら大丈夫ですよ」
きちんと置き手紙をしてきましたから、とレックナートは微笑む。
ああ、書類に書きつけたのはそれだったのか。
ならいいか、と半分落ちている意識故の鈍い意識で思って、ヒクサクは目を閉じた。
***
歩み寄り〜。