その日もヒクサクは、ある知人と向かいあってお茶を飲んでいた。
世間的に生死すら不明とされている彼の個人的な知り合いなど両手の指で十二分に足りる上、自分からヒクサクを訪ねてくるような者はそれこそ片手で足りてしまう。
ハルモニアの頂にいて真の紋章を持っているため、ヒクサクが城から出ることはほとんどない。
そこに新しい出会いなどあるはずもなかったし、ヒクサクも望む事はしていなかった。

だからこそ数週間に一度、あるいは数ヶ月に一度の頻度でやってくる知人と過ごす時間は穏やかであるべきだった。
しかし、幾度目かの邂逅を踏まえてなお、ヒクサクは胸につかえている言葉を自覚していた。

ヒクサクの貴重な休憩時間を使う相手は、本来そこにいるべきはずのない人物で、何度も聞こうと思い、その度に飲み込んできた一言。
いっそ言ってしまえばきっとこんな思いをしなくて済むようになるのだろう。
しかし、その言葉が招く結果を恐れている自分がいることも事実だった。

どうしてここにくるのだと、その一言を。





<因縁>

 



レックナートが最初にハルモニアへと足を運んだのはルックをかっぱらっていった時だが、実際にヒクサクと顔を合わせたのは、ルックがグラスランドで騒動を起こした 後が初めてだった。
どう気まぐれを起こしたのは分からないが、彼女はそれ以来、時折、気が向いた時にここを訪れる。
堅固な門も神官達の目も潜り抜けて一瞬でヒクサクの目の前に現れる事ができるのは、彼女が宿す紋章の為せる技だった。
しかし、その紋章を持つが故に、彼女は本来ここには姿を現さないはずで、それ故に、二人の間には決定的な亀裂があり、それは未だ埋められていない、はずだ。

普段と同じ味であるはずの、しかしいつもより幾分か薄く感じるそれで喉を潤して、ヒクサクはまだ呼び慣れない名前を呼ぶ。
「……レックナート」
「なんです?」
カップを片手に持ったまま小首を傾げるレックナートの目は閉じられていて、ヒクサクを映さない。
その割に全て見えているように振舞うのだから、実は見えているのではないかと思う事もしばしばだ。
「小言はいい加減飽きたので別の事にしてくださいね」
「いや……そうではなくて」
常に変わらない、穏やかでどこか飄々とした態度は、何の気負いもないように思える。
それがヒクサクには酷く異質で不可解なものに思えた。

彼女が盲目であると知ったのは、ほんの数年前だった。
レックナートがかつて住んでいた村落と一族を奪ったのは数百年も昔の出来事であったというのに。
彼女の一族を紋章を得るために滅ぼしたのは紛れもなくハルモニアで、それを指示したのはヒクサクだった。
恨まれないはずがないし、彼女の姉が復讐の為に真の紋章を集めていると情報が入った時も、当然だろうと受けとめた。
それが自然のあるべき姿であるはずだ。
なのにレックナートは、仇を討つわけでもなく、復讐に燃えるでもなく、塔に篭り星を見つめた。
そして今、敵である相手の前に座って笑っている。
……その心はなにを抱えているのか。

「――お前は、私を恨んではいないのか?」

口から出た言葉は、心の内に抱えていた疑問とは別のものだった。
彼女の顔から笑みが消える。
俯いたレックナートに、ヒクサクは答えを待たずに椅子の背に体を預けて瞼を閉じた。

次に目を開けた時にはレックナートの姿はないだろうか。
そうして、二度とここへは訪れないかもしれない。
そうであるべきだった。加害者と被害者がのんびりとお茶を飲み交わすなどとんだ茶番でしかない。

しかし、彼女の気まぐれに付き合っていただけのはずが、いつからかヒクサク自身がその来訪を楽しみとすら感じていたのも事実であった。
つかの間の「知人」との出会いは、停滞していた心を揺らした。


ぱしゃん、と顔に生温かいものをかけられた。
鼻につく甘ったるい臭いに混じって漂うのは茶葉の香り。
驚いてヒクサクが目を開けると、レックナートが空のカップをソーサーに戻すところだった。
纏う空気は、怒っているというより、寧ろ呆れている。

紅茶をかけられたのだと近いして、消えないどころかなにをしくさるんだと呆然としているヒクサクに、レックナートは溜息混じりに言った。
「五百年以上も前の事を蒸し返してどうしようというんです?」
「いや、しかし……年月とか、そういう事で片付けていい問題では」

さっとレックナートの手がポットに伸び、ヒクサクは慌ててそれを掴んで自分の方に引き寄せた。
さすがにそれは熱い。
一度目はカップに入っていた分だけマシだったのかもしれない。
……溶解量ギリギリまで砂糖を入れられていたようで、ものすごくべたついてきたが。
「それが今のあなたの甘さです」
心を見透かされたように微笑みながら言われて、ヒクサクは閉口した。
服には紅茶の染みが見事に広がっていて、おそらくこれはもう駄目だろう。
指で触ってみると、べたつく中にざらざらとした感触。
……限界どころか超えていないか。
そんなに甘いのか、私は。

「甘いですね」
「……人の心を読まないでくれないか」
「忘れてはいませんよ」
「…………」
「けれど、過去に捕われ続けても、なにも変わりません。数百年もの間復讐に捕われ続けた姉の末路はご存知でしょう」
「…………」
「私は姉とは違う道を歩んでみようと思っただけです」
そこで一度言葉を切って、レックナートは穏やかな声で、それに、と続けた。
「あの子達を見ていると、過去に捕われてばかりいる事が馬鹿馬鹿しくなりますから」
「そう、か」
「ええ」
見苦しいですからその服は早く着替えてくださいね。
誰がそうしたのかと突っ込みたくなるような言葉を残して、レックナートは姿を消した。


残されたヒクサクは、一人椅子に座ったまま、やれやれと溜息を吐いた。
年下に説教されるようでは、自分もまだまだらしい。

 

 



***
「砂糖なしの紅茶をかけられるようになってくださいね」
「紅茶をかけられる事自体二度とごめんだ」

 

2009.11.30 改訂