<隠れた糸>
ぼんやりと、視界がよみがえる。
ああ、目を開けたのだと。その時初めてそう思った。
全身に残るのは強い倦怠感。
何が起こったのかわからない。
ただ、今寝ているこの場所は、自室ではないことだけは確かで。
「目が覚めたようだね」
「…………」
「無理に動かないほうがいい。冥夢の秘薬の効き目はすさまじいな」
メイムのヒヤク
その言葉に、確かに反応する。
それはなんだ。
そうだ――幽世の門の、秘薬だ。
効き目とは、どういう。
そこまで考えて、ザハークの意識は一気に覚醒する。
右手で毛布を跳ね上げ、何とか上半身を起こす。
横に立っていた白衣の医者が、表情一つ変えずに振り向いた。
「寝ていろ」
「こ、ここはっ――貴殿、はっ」
「私は医者だ。お前は患者」
「なにが……」
はたと、気がつく。
そうだ、自分はアルファードをとめるために武器を取って。
彼に立ち向かって。
――そして、倒そうと。
倒そうと。
して。
しばし呆然としていたザハークは、何とか記憶をつなぎ合わせる。
肝心の部分がきれいに抜け落ちてしまっていて、わからない。
倒そうとして、倒したのだろうか。
倒したのだとすると、いったいここは。
倒していないのだとすれば、生きているはずもなく。
だが、戦った記憶は、この手にも残っていない。
ぱたぱたと、足音がした。
「シルヴァさん、起きたって本当?」
声が、聞こえる。
「ああ、まだ安静だがな」
「よかった。思ったより早かったね、さすが女王騎士」
ついたての向こう側からひょいと現れたのは。
まるで時間が戻ったのかと錯覚させるような。
オレンジ色の平常服を着た。
「おはよ、ザハーク。もう平気?」
微笑んだ彼は。
何の屈託もない笑みを、向けてきた。
「…………」
「ザハーク、どこか痛い?」
首を傾げて聞いてきたアルファードの前で、ザハークは混乱の絶頂にあった。
違う、彼がこんな風に接してくるはずがない。
アルシュタート女王と、フェリド騎士長は死んだ。
ゴドウィン卿が政権を握り、自分は彼らの下についた。
そして城を追われたアルファード王子は、反乱軍を打ちたて、王国軍をどんどん圧倒して。
……それが事実だったはずだ。
眠る前の自分のいた世界だったはずだ。
時が、戻ったのだろうか。
これは長い、長い夢だったのだろうか。
「ザハーク?」
本当に心配そうな顔をしたアルファードから顔を背けて、ザハークは奥歯を噛み締める。
――夢、だったのだろうか。
自分はまだ、女王家を裏切ってはいなかったのだろうか。
その選択で後悔したとは言わない、だが。
「……っ……殿下……」
押し殺すような声で言われたそれに、アルファードは微笑む。
「まだ、僕をそう呼ぶの、ザハーク」
「!」
「ありがとう、うれしいよ。こう見えて、僕はザハークのこともアレニアのことも、とっても好きだったんだ」
そういって視線を落としたアルファードは、毛布の上に落ちていたザハークの手に自分の手を重ねる。
「ごめんね」
そういって、やさしく撫でる。
「僕がもうちょっとしっかりしていれば。もう少し早く手を組んでいれば。みんなにきちんと知らせていれば」
こんなことには、ならなかったかもしれない。
「二人で何とかできると、思い上がっていたんだ。このファレナを、守れると」
「……でん、か?」
言っている意味がわからない。
混乱するザハークの耳には、もうひとつの足音が聞こえてきた。
もうひとつ、いや、もう二つ。
「入りますよ」
耳になれた、涼しげな声。
ついたての向こうから入ってきたのは、ここしばらくずっと着ていた黒の服ではなく、元からの私服を着ているギゼルと。
――はじめてみる、平常服の、アレニアだった。
「殿下、どこまでお話を?」
「何も」
「では、はじめようか。アレニア殿はそちらの席へ」
ギゼルに促されて、アレニアはザハークの隣に腰掛ける。
彼女の目はうつろで、ザハークと同じく戸惑いの色が濃かった。
「アレニア殿はわかっていると思うが、ここはソルファレナだ」
「二人が飲んだのは烈身ではなく、冥夢の秘薬だよ」
「「なっ……」」
驚愕の色を隠せない二人に、アルファードはすまなそうに微笑む。
「ごめんね」
そう言ったアルファードは、横に座っているギゼルの肩をたたく。
「僕はギゼルと協力していた」
「闘神祭の前からだ。私と殿下は、父、マルスカールの陰謀を阻止しようとしていた」
「……なっ、ど、どういうことですかっ!」
思わず立ち上がったアレニアに、ギゼルはそういうことだよ、と答える。
「君達にはすまないと思っている」
「私たちは……騙されていたのですか」
「ザハーク殿!」
そんなことを、といきり立つアレニアを鎮め、アルファードは首肯する。
「そうなる。けど、女王家を裏切ったのは君たちの意思だ」
「!」
「――ザハーク、アレニア。君たちの処分を言い渡す」
真顔でそう言ったアルファードの横で、ギゼルが懐から何かを取り出した。
それは、二通の手紙。
「両名共に女王騎士から除籍。ザハークは深き黎明の森のさらに西の国境線。アレニアはレルカー以南の国境線に移動。生涯その地を離れることを禁ずる」
言い渡されたその言葉を二人が飲み込めないでいるうちに、ギゼルは手紙を押しやった。
「これは君たちが必要とする書類一式だ。これより後、偽名を使い身分を隠し、王国軍の一幹部として国境線に赴いてもらう」
ようやっと彼の言わんとしていることを飲み込んだザハークが、かすれた声で言う。
「……いっそ、それならば」
「あいにく、人材不足で使える人間を殺して回る余裕がないのでね」
すっぱりと言い切ったギゼルは、それから視線を伏せた。
ゆっくりと頭を、深く下げる。
「責のあるはずの私は、何の処分も受けない」
「ぎっ、ギゼルさまっ、お顔をお上げください!」
狼狽したアレニアの言葉にかまわず、ザハークはその鋭い目でギゼルを見た。
「人事の決定は、どなたですか」
「進言したのは私だ」
「……すべてお分かりになっていて、私たちに指示をされていたのですね」
「――そうだ」
頷いたギゼルに、ザハークは小さく笑みを漏らす。
「くくくくく、私は、お二人の掌で踊っていた道化に過ぎなかったというわけです……」
ひとしきり笑い終えてから、ザハークは再び顔を真顔に戻す。
「お受けします」
「ザハーク殿っ!」
「私はギゼル殿に忠誠を誓いました。その命には背きません」
凛とした目で言ったザハークを。
立ち上がったアルファードが無言で張り倒す。
その細い身体から出たとは思えないほど強靭な力で。
「やめてよ」
「殿下、結構です」
「結構じゃない。ザハーク、そうやってギゼルに責任を押し付けるのをやめるんだ」
揺れない目で、前女王と同じ色の目で言った彼は、ザハークを叩いた手を静かに下ろす。
「これは、女王騎士の身分でありながらその指針を裏切り忠誠を違え、守るべきであった多くの民に甚大な被害を出した君への罰なんだ。ギゼルはすでに罰を受けている、これ以上君の責任を背負う必要はない」
「…………」
黙った二人に、アルファードは悲しげに微笑む。
「もう一度言うよ。僕はザハークもアレニアも好きだった。君たちに裏切られて、辛かった。家族の次に、一番そばにいた。父上と母上にとっても、そうだったはずだ」
そう言ってアルファードは、ポケットの中から何かを取り出した。
「持っていって。僕からの選別だ」
ぽん、と二人の前に置かれたのは。
独特の模様に囲まれ精緻な細工の刻まれた。
女王アルシュタートと。
女王騎士長フェリドの。
丁寧に掘られた、肖像画だった。
二人がそれを取り上げる前に、アルファードの姿は消える。
声のない二人に、ギゼルは言った。
「――殿下は、このまま国にとどまり、女王騎士代理をされるそうだ」
「……代理……」
「ああ。いずれリムスレーア陛下にふさわしい人物が見つかれば、直ちにその地位を退くと。事実、今の段階では元老院を抑えるに殿下の力は不可欠だから」
「……ギゼル様」
「なんだ、アレニア殿」
震える指を自分で握りながら、アレニアは必死の目でギゼルを見上げた。
「なぜっ……あなたは、あなたはゴドウィン家のっ」
それにすべてをかけた二人に、かける言葉はギゼルには見つけられなかった。
ただの茶番であったのだと。
ギゼルとアルファードの計画であったのだと。
二人が守ろうとしたものは、ギゼルが内から腐らせてしまっていたのだ、と。
そんなことを知らされた相手に、これ以上何が言えるのか。
――”なぜ”……か。
「――私には、父の野望や理想より、ずっと大事なものがあった」
その言葉に、アレニアの表情がこわばる。
「ただ一人の人の、志を守りたかった。それが唯一の、つながりだった」
腰の剣を握って、ギゼルは呟いた。
「この剣に誓ったのだ。あの方が望まぬ事態には、しない、と……」
結局それは、果たされなかった。
最悪の方向へとすべてが転がり、抑えるために講じた手段がさらに悪い結果を呼んだ。
けれども、けれども、最悪の事態だけは免れたと思っている。
「……わかりました」
「ザハーク殿……」
肖像画を手に取ったザハークは、ほんのわずかに微笑んだ。
「アルファード殿下のおっしゃる通り、私には大きな責がございます。その責に見合わぬ軽い処分にしてくださったご好意と共に、謹んでお受けいたします」
……わたし、は」
震える声で言ったアレニアに、ギゼルは声をかけた。
「――アレニア殿。身体が治るまで、ゆっくり考えてほしい。殿下は他の方法も検討されている」
「…………」
うつむいたアレニアの肩をやさしくたたいて、ギゼルは病室を出て行った。
***
ネタばらし(待)と処分。
ザハークは、好き。
サメっぽいところが。(何
BGM:FreedomHouse 冷たい風