<代理の理由>



「ギゼル様、前方に!」
そう言われてギゼルは甲板に出る。
少し目を細めると、波を切る船の姿があった。

「……これは予想外だ」
小さくギゼルは舌打ちをする。
「早く船を接近させろ」
「は? しかし……」
「いいから、早く!」

サドムを興奮させて船を襲わせる。
……陳腐な一幕。
だけれども、あの船に彼女まで乗ってくるとは計算外だった。
てっきり、王宮にいるものと思っていた。

――ギゼルッ、なんとかしてくれよ! あたしはトカゲはどーしてもダメなんだよっ!

日ごろ勝気なくせに、あの時だけ年相応に泣いてへたり込んだ彼女。
枝で追い払っただけなのに、笑顔で抱きつかれた。
弱いところなんか絶対見せなかった彼女のダメなもの。
それを知れたことがとてもとても嬉しくて。

「――あれは」
船の上に立っている黒い装束。
王子アルファードの護衛は見習いのリオンという少女のはずだ。
ということは消去法でサイアリーズの護衛ということになる。
「おお、あの方は噂に聞くゲオルグ殿ですか? 女王騎士長直々のご推薦で入られた、剣の腕では一二位を競うといわれる」
「そうなのか」
「ご存知なかったんですか?」
「……いや」

知っていなかった、わけではなかった、もちろん。
ただ意識的にその事を排していただけなのだろう。
「ギゼル様っ、サドムが一匹船に飛び上がりました」
「急げ! 攻撃用意!」


それでも一匹目は間に合わないだろう。
彼女は悲鳴を上げてしゃがみ込むだろう、あの時のように。
そしてそれを救うのは。

――自分では、ないのだ。


「ギゼル様?」

胸を突き刺すような痛みに、ギゼルは唇を噛む。
他の男の背中に彼女が守られるのは我慢ならない。
あの時の誓いそのままに、自分の剣は彼女のためにあるのだから。

だけど。
それでも。


――あたしはもう、あんなことはごめんなんだ


あなたがそれを望むなら。
この国を、自分の幸せよりも強く望むのなら。
……それを貫くのを手伝うのが、自分の望みでもある。
そしてそれを貫くために、彼女の隣にはいられない。










「ところででギゼル殿、ものは相談なのだが……」
「は?」
闘技場の案内をすると先導していたが、いきなりサイアリーズに話しかけられた。
今では公の場では彼女も王族らしく振舞う。
……それが、哀しい。

「地に戻っていいかい? あたしゃこういう堅苦しいのは苦手でね」
肩を竦めて彼女がそう言うと、後ろでゲオルグが眉をしかめ、王子とその護衛があっちゃーという顔をする。
それに気付いているだろうに、ちっとも悪びれた態度も見せずサイアリーズはギゼルの表情を伺った。
「どうぞお構いなく」
形式ばった返答をしてから、ギゼルはわずかに微笑む。
「……あなたはそうしている時が、一番魅力的です」

零れた本音に、後ろのゲオルグと王子とその護衛の少女は仲良く固まる。
今、なんと?

「あははははは! あんたも言うようになったね!」
三人の戸惑いを吹っ飛ばすような声で笑って、サイアリーズはカツカツと一人で先に行ってしまう。
それを慌てて追いかける王子とリオン。
その三人の後ろから大股で追いかける黒衣の騎士はギゼルの前を通り過ぎる時、小声で呟いた。
「今のは不敬罪にあたらんのか?」
「なりそうでしたか」
「……誰彼かまわず口説いているわけではなさそうだったからな」
意味深な言葉を落として、彼は去っていく。





「それじゃああんた達だけ行っておいでよ」
町を見る、と言ったアルファードにサイアリーズはそう言った。
「え、でも……」
「あたしはちょいとこの男に話があるんだ」
「おや。それは光栄ですね。では私に代わって町を案内できるものを手配しましょう」
そう言って微笑んだギゼルに、リオンが大丈夫ですよという。
それなら、と三人を見送ってギゼルはサイアリーズを促した。

「込み入ったお話でしょうか」
「そうだね」
「……ではこちらへ。自室へ案内いたします」

無言で隣を歩くサイアリーズをちらっと見て、ギゼルは小さく溜息を吐く。
こんな形で会うとは――あまり歓迎できない。いろいろな意味で。
「ロードレイクのご視察、ご苦労様でした」
「…………」
「……リムスレーア様のご婚約は、お寂しいですか?」
「…………」
「……サイアリーズ、様」
「あんたねぇ」

結った髪を揺らしてサイアリーズが見上げる。
「もっとマシな話題はないのかい」
「――そのような格好をされているとお風邪を召すと、再三度申し上げた覚えがありますが」
「……あんたはあたしの母親かい?」
やれやれ、と首を振ってサイアリーズは足を止める。
目の前に聳え立つゴドウィン家の城。
「嫌な城だとゲオルグが言ってたさ」
「そうですか」
「攻めにくそうだと。あいつはいっつもあぁで情緒がないったら」
困ったもんだねえと言ったサイアリーズの横で、ギゼルは無言になる。

「ギゼル?」
「……いえ。なんでしょう?」
「なんでしょうじゃないよ、入り口はどこだい?」
「あ――ああ、こちらです」


門を入り、階段を上る。
ほどほどに広いが妙に質素な部屋にサイアリーズは通される。
……これが天下のゴドウィン家の嫡男の部屋か?

仕方がないので一番まともそうな長椅子に腰を下ろす事にした。
当然ギゼルは立ったままサイアリーズの相手をする事になる。

「わざわざ私の部屋までご足労いただき申しわけありません。落ち着いてお話を伺うにはここが一番ですので」
「いや、いいよ」
飲み物を聞いてくるギゼルをあしらって、サイアリーズはさっくりと本題に入ることにした。
「あんた、どういうつもりで闘神祭に出るんだい?」
「それは……どのような趣旨のご質問と理解すればいいのでしょう? かつてサイアリーズ様と婚約していた身でありながら、その姪御さんに求婚するのは不道徳だと?」
違うよ、と眉を寄せてサイアリーズはギゼルを見つめる。
よく感情を露にしていた眼は、今は何も映さない。
「はぐらかすのはよしな。あんたの代理も悪くはないけど、バロウズ家のボウヤの代理人が相手じゃ勝ち目は五分以下だ。あんたにしては分の悪い賭けだなと思ってね」
「そうですか? 勝負は時の運ですよ。ユーラム君にも言ったとおり、本番ではどうなるか分かりません。だからこそ闘神祭を執り行う意味もあるというものでしょう?」

微笑を浮かべてそう言ったギゼルの顔は。
……ここ数年で、いやというほど見慣れてしまった顔だった。

「……やっぱりそうやって本音を隠して笑うんだね……」
きゅっと自分の手を自分で握ってサイアリーズは俯いて呟く。
「あんた、ほんとに変わったよ。昔は素直ないい子だったのに……」
呟いた言葉は、しっとりと落ちる彼の言葉で遮られた。
「素直ないい子でいてもほしいものは手に入らないと学んだんですよ」
その言葉の意味が分かってしまって、サイアリーズは顔を上げる。
穏やかなギゼルの目とぶつかって、何を言おうとしていたか分からなくなった。
「ギゼル……」
「あの頃の私にとってあなたは憧れそのものでした。先代の女王陛下と私の父の利害関係だけで決まった婚約でしたが、私は純粋に喜んでいたのですよ」

大好きな人。
王家の姫だから、きっとずっと一緒にはいられないと思っていた。
だけど――ずっと友人ではいてくれるだろうか。
そんな不安を抱えていた時だった。

友人ではなく。
夫婦になれると。
――その時の喜びは、どう伝えればいいのだろう。

「今の陛下が即位されて婚約破棄を言い渡された時、どれほど落胆したか……」
芝居の顔でがっかりとしてみせると、サイアリーズの端麗な顔が歪められる。
「あたしだってあんたには悪いことしたと思ってるさ。でもね……こういっちゃなんだけど、姉上の判断は正しかったと思うよ」
唇を噛んで、ぎゅっと腕を組んでサイアリーズはそう言う。
……その進言は、彼女が自らしたものだ。
それをギゼルは分かっている、ことをサイアリーズも分かっている。
「たしかに継承争いの火種になりかねない縁組ではありましたが」
「先代……あたしらの母親が女王になるまでの争いはそりゃあもうひどいもんだった。姉上もあたしも、あんなの二度とゴメンなんだよ」
私もです、と言おうとしてギゼルはやめた。
今のサイアリーズにこの言葉は――どんな心で言ったところで、白々しくしか響かないだろう。
「あんただって母親を……」
呟いたサイアリーズはさっと顔色を変えて、俯く。
「……ごめん」
「いえ。あの争いのおかげでファレナも我がゴドウィン家も少しだけ強くなった。母も本望でしょう。」

信じられないといわんばかりの顔でサイアリーズが顔を上げる。
「あんた……本気で言ってるのかい?」
「もちろんです」
「……だ、って」
「サイアリーズ様。人も国も、変わるものですよ」
「そんなの、分かってるさ。そうさ……あたしも、あんたも、姉上も……変わってしまった」
横を向いてそう言って。
白い肌の上を流れる薄い色の髪が揺れる。
まるで十も若い少女のような華奢な印象を残す表情だった。

「しかし、変わらぬものもあるでしょう」
「なんだい、それは」

微笑んでギゼルは己の腰にある剣を軽く叩いた。
その意味はサイアリーズには伝わらなかったのかもしれない。
けれど、今はそれでもいいと思った。

――それは彼女の未来に、重荷になる可能性とてあったのだから。

 




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本編をざっと料理。前菜。
深読み必須。