<許しの理由>



後ろで静かに扉が閉まる。
閉める人は一人しかいない。
クロスは無言で背中を向けて立ったまま。

「……どうして、彼の首を切らなかったのですか?」

静かな問いが部屋に落ちる。
その背中からの声はいつもと同じ、深く温かい声。
落ち着ける声。
優しい声。
けれど、彼の言った言葉が冷たく重い。

「クロス様、答えてください」
「軍主の命令に逆らうの?」
「――そういうわけでは、ありません。ただ――」
シグルドは拳を握った。


今日拾われた漂流者、彼はシグルドも何度も目にしている。
クロスをこの戦いの前から知っている者から彼との詳しい関係も聞いていた。
前は、クロスはその人物に仕えていたと。
常に日陰の身になって、献身的に支えていたと。
そして、ある日、その人物はクロスを――

又聞きだが、言いにくそうにしながらも全員が同じことを言う。
聞いた人達の人柄はクロスに負けず劣らず誠実な人ばかりだし、信憑性は高い。
この刃が届く範囲に来たら、その喉を掻っ切ってやろうと――そうとすら思っていた。


なのに彼は、許した。
いくらでもしようはあったのに、問答もなしに許した。
いや、問答は一度だけ、声は聞こえなかったが唇を読んだ。

項垂れた彼の前にしゃがみ込んで。
その顔を覗き込んで。


――おかえり、スノウ


そうと、愛しそうな顔で呟いた。



「クロス様……俺は納得できません」
「別に、シグルドに納得してもらいたいわけじゃないよ」
まだ振り向かないクロスの肩に、シグルドは手を掛けてこちらへ引く。
「……クロス様……彼があなたにしたことを、俺は聞きました。俺は――」

振り向いたクロスは、綺麗に微笑んだ。
「ありがと、シグルド。僕の代わりに怒ってくれたんだよね?」
でもいいんだよ、と言ってぽんぽんとシグルドの手をたたく。
「スノウはね――僕に世界をくれた人なんだ。命を何度か助けるのなんて、恩返しの一部だよ」
「世界……ですか」
うん、と頷いてクロスはベッドに腰かける。
隣に来るように促されて、シグルドも腰を下ろした。


「僕が捨て子だってのは、言ったよね」
「……はい」
「――フィンガーフート卿は、まあ悪い人じゃなかったけどさ、拾った子供になんか興味はなかった。見捨てると体裁が悪いから育てただけだね。世話してくれた使用人も同じだよ……自分の家で忙しいのに、屋敷に来たら余計な子育て、やってられないでしょ?」
だからたらいまわしに世話をされた。
優しく接してくれた人なんか、ほとんどいない。
当たり前――だって、彼らは仕事を休む代わりにクロスの面倒を見ていたのだ。
家には自分の帰りを待つ子供もいるだろうに――……。
「四つの時、屋敷を探検していたスノウに会った。僕はその歳まで、文字も読めなかったし数字もうまく数えれなかった。それに僕は――」

僕はね、とクロスは呟いてシグルドの肩に頭を乗せた。

「僕は、外に出たことがなかったんだ……」
「――……え」
「空の青さも、風の心地よさも、太陽の眩しさも――僕は知らなかった」

草の青さも、市場の喧騒も、揺れる海ですら――知らなかった。
ラズリルに住んでいたのに、海を知らなかったのだ。

「うれしかった……ものすごく、うれしかった。ほんとうに、ほんとうに」
繰り返すクロスの目じりには涙が浮かぶ。
「それから僕の待遇は一気によくなった。食事も皆と同じ量がもらえたし、服だって季節ごとに新しいものがもらえた。スノウが遊ぶといえば仕事だって減ったし、凍えながら寝なくたってよかった……」
なにより、自分を必要としてもらえた。
それが一番嬉しかった。


「僕は誓ったんだ……一生スノウの傍にいて、一生スノウを守るんだ……スノウが僕にしてくれた事以上を、絶対、ぜったい……っ」
途中から涙声になったクロスは、片手で顔を覆う。
「どうし、どうして――こんな事に……」
「クロス……様」
「僕は、僕はスノウのそばにいられさえすればよかった! なのにどうして、どう、して――……」
戸惑いながらシグルドはクロスの肩に手を回す。
クロスは泣きながら彼の胸に顔をうずめる。
「教えてシグルドっ……どうしてスノウは何度も僕を避けたのっ、どうしてスノウはあの時僕に罪があると言ったのっ、どうして、どうしてスノウは僕を見て言ってくれないの」

――君は僕の友達だよ

最初に会った時のあの言葉を。


ずっと待っているのに。
ずっと待っていたのに。
ずっと――たとえ何があったって、僕だけは君の敵にならない。
君がなんと思っていようと、誰が何を言おうと、僕はずっと君の味方だ。

待っているよスノウ、待っている。
君が気付いて戻ってきてくれるのを待っている――……


「戻ってきてくれたのは――僕がスノウの味方だって、気付いてくれたからじゃ、ないのかな」
「…………」
「――僕は……僕はずっと、スノウに、理解されない友情を押し付けてきた……?」
「……クロス様……」

シグルドはそれ以上言葉が続かず、ただクロスを抱きしめる腕に力をこめる。
何が言えるだろう。
古い友人に全てを捧げた彼に。
何が言える――無神経な言葉をかけた自分が。

「僕はもう、スノウにいらない人なのかな……」
ぽそり呟いて、クロスは体から力を抜く。
「そしたら僕もさ、考えるよ、僕の生きる、意味を」
「あなたの生きる意味は……彼の元にしかないのですか」
「……ごめんね」
ごめんね、と顔を上げずにクロスは繰り返す。

「僕は、まだ、僕自身のために生きる事は、できない」
「どうしてそんなに自分に価値をおかないんです、あなたは、あなたは大勢の人に愛されているんですよ、それなのに」
意識せずとも厳しい口調になったシグルドに、クロスは彼の背中に回した腕に力をこめる事で答えた。
「――少しは……少しは、俺のことも考えてください。あなたを傷つかせてしまって、傷ついているあなたを抱きしめることしかできない俺のことを――」
「シグルドのせいじゃないよ」
呟いてクロスは顔を上げる。

「……考えてる、ちゃんとシグルドのことも考えている。でも、分かってほしい――……スノウはそれだけ、僕の全てだったんだ。僕は、絶対にスノウを殺せない」
「――出すぎた真似でした」
すみません、と続けようとしたシグルドの言葉を、クロスは叫んでさえぎる。
「違うよ――! 違うよ、そんな言い方、しないで!」
「クロス様?」
「出すぎた真似じゃない、シグルドは、シグルドの言葉は僕にとってとても大事、だいじなんだ。元気になれる、がんばれる。優しくなれる――……悲しくなれる」

シグルドの首に両腕を回して、クロスは彼の肩に顔を埋める。
「僕が泣けるのは、シグルドの前だけ。だから――そんなこと言わないで」
お願い、と呟いたクロスの背を撫でて、シグルドは悲しげな微笑を浮かべた。
「……はい、わかりました」


 

 

 


***
中途半端でも切ってみた。
この次のシーンは閨かシグルドVSスノウ(というか一方的殺戮?)だもんよ。

クロス別人。
あ、くっついた後です。