フッチ様がお待ちですよ、と部下の言葉を聞いても夕暮れ時まで粘ったのは、どんな顔をして会えばいいのか考える時間がほしかったからだ。
これもルックがあんな事を言うからだと弟に八つ当たりしながらペンを動かす。
いつもなら昼間でも休憩を取って会いに行くのにと部下の目が訴えていたが、直接尋ねられないのをいい事に、急ぎでもない書類へと視線を戻した。
仕事の用事ではないから急がない。待っていると。
あらかじめ部下に伝えていたフッチは、どこまでお見通しだったのだろうか。
来客がいると知っていての残業はさすがに訝しがられると、規定の時刻に席を立てば、用意したばかりの茶器一式が渡された。
笑顔の部下にどこまで把握されているのかと引き攣った表情を伴って、私室の手前にある応接間の扉を開いた。
ソファの定位置に座っていたフッチが扉の開く音に顔をあげ、ササライと視線が合う。
それは一瞬で、向こうから逸らされた視線にあの日からずっと燻っている苛立ちがまた増して、やや乱暴に茶器をテーブルに置くと正面の席に座った。
「随分とお久しぶりですね」
「……無沙汰にしていて、すいません」
あからさまな嫌味に対するフッチの腰は低い。
これまでそう間を開けずに向けられていた足が遠のいたのは意図的だったらしい――理由は想定がつくから、原因となったササライとしては皮肉のひとつでも返ってくるかと思ったのに、これではかえってこちらが気後れしてしまう。
あまり蒸しすぎると渋くなると、気まずさを紛らわせるように茶器を調え紅茶を淹れた。
普段より甘い香りは部下の気遣いだろうか。
フッチへと片方を差し出すと、それには手をつけずに、膝の上で拳を握ってフッチは頭を下げた。
「先日は、すいませんでした」
「そのことは……もういいです。僕の対応も大人げなかったですし」
「もう一度チャンスをくれませんか」
「は、」
「抱かせてください」
まっすぐにササライを見つめてきたフッチに、ササライは口を開けて間抜けな顔を晒すしかできなかった。
たしかに先日、抱けるものなら抱いてみろとばかりに乗り上げた。
その結果、フッチはその場から逃げたわけで、ルックには随分と呆れた顔をされたものだけれど――ルックに言われたっけ、本当に抱かれたらどうするのかと。
その答えが出なかったから、今日もぎりぎりまで会うのを引き伸ばしていたのだった。
「……別に、後に退けなくなったからと無理しなくてもいいんですよ。あれは私も売り言葉に買い言葉でしたから」
「なかったことにはしないでください」
ササライの意図を察していたのだろう、上から言葉を被せられた。
フッチの表情が僅かに歪む。
「拒否されるならそれで構いません。ただ、俺の告白をなかった事にはしないでください」
それだけはやめてくださいと重ねて請われると、ササライは視線を伏せるしかできない。
長い沈黙が続いて、カップからの湯気もほとんど消えた頃、フッチが再び口を開いた。
「抱けたら本気だと信じてくれるんですよね」
「……できるんですか」
「逆がいいならそれでも構いません」
そろそろと視線を上げて見たフッチの目が据わっているように見えるのは気のせいだろうか。
「別にそこにこだわりはないんですよ。俺は、俺が本気だと分かってほしいだけだから」
俺は、本当は、ちゃんとお付き合いして、好き合ってからがいいんです。
どこまでも淡々とした調子で言われて、ササライはまっすぐ視線を向けてくるフッチに、彼が怒っているのだとようやく理解した。
この申し出はフッチの本意ではないのだと表情が告げている。
ただ、ササライがその条件を出すのなら、認めさせるためなら覚悟はしてきた、と。
「一夜を共にしたら本気だと思ってくれるなら、まずそのところまで行くためなら、俺の希望は二の次にします」
「…………」
「ササライを話し合いの土台に乗せるにはこれくらいしないと駄目だ、とルックにも言われたし」
思わず目を剥いた。どういうことだ。
「なにそれ」
「寄る年波で凝り固まった石頭を叩き割るには相当のインパクトが必要だと」
「待って。あいつの話を鵜呑みにしたの」
というか、ルックに言ったのか……それともルックが行ったのか。
呆れ返っていた弟の様子を思い返してササライは今度こそ頭を抱えた。
「本気だと信じてもらうためなら、なんでもしますよ、俺は。そこからまた、頑張りますから」
そこで今日初めて表情を緩めてみせたフッチに、ササライはようやく思い至った。
自分は上司の恋愛事情を笑える立場にいなかった。
おそらくそれより、確実に、酷い。
ああ、と顔を覆って目を瞑る。
「…………ごめん」
長い沈黙の先の呟きに、フッチの瞳に淋しさが宿り。
誤解を招いたと気付いて慌てて首を振った。
「違うんです。そういう意味ではなくて。あなたの気持ちを否定するような言い様をしたのを謝罪したんです……」
気の迷いだと決め付けた事が、相手の気持ちを少なからず踏みにじった事になると察してしまえば、いたたまれなさがすごかった。
ササライの心情を探るようにしていたフッチが、緩く首を振る。
「いえ、わかっていただけたならいいんです。……それでどうします?」
「どうとは」
「前と同じように、俺が本気かどうか試すんですか?」
「……いえ、結構です」
わざわざ試さなくても、こればかりは理解できた。
「即答で、否ではないですか」
「…………」
「なら、頑張らせていただきます」
無言を肯定と取って、フッチは笑みを浮かべる。
その目がこれまでにない色を含んでいる事に気付いてしまえば、ササライは顔を引き攣らせるしかなかった。
ストレートに伝えていかないとだめだとよく分かりましたから。
……もしかして対応を間違えたかと、フッチの言葉に後悔したけれど後の祭りな気がしてならない。
***
「何回目の逢瀬で落ちると思う?」
「3回目くらいかなぁ」
「もう落ちてるってことでいいんじゃないの」
「フッチが本気だしたらまっとうなイケメンだもんな」
「少年期を知ってると笑えてくるけどね」
「やめてやれ」