くつくつと鍋の中では刻んだ野菜や燻製肉が踊っている。
うっすらと立つ湯気は程よい塩気と含んでいて、順調に煮込まれている様子にクロスは満足気に中を覗きこんだ。
夕食時に焼くパンの仕込みは済んだし、メインディッシュ用の魚はそろそろ届くはずだ。
スープを軽く味見して、もう少し辛味がほしいなと調味料を並べた棚を見た。
どの小瓶に入れていたかと見ていると、赤い液体が入った透明な瓶が目に付く。
「これくらいかなー」
くるりと円を描くように鍋に垂らし赤い液体が全体に馴染むようにかきまぜると、除々にスープに変化が現れ始め。
「…………ん?」
あれ、とクロスが改めて瓶を見た時にはすでに時遅く、スープは取り返しのつかない状態にまで変貌していた。
「うわ、失敗した」
クロスの言葉にルックとササライはそろって顔を向ける。
厨房から聞こえたとおり、彼は今夕食の準備をしている最中だったはずだ。
相伴に預かった経験は片手程度だが、その時や差し入れを思い出すに、失敗をする方が珍しいと思えるのに……とルックをちらと見ると、ルックも珍しいといわんばかりの表情を浮かべていた。
「やっぱり珍しいんだ?」
「たぶん聞いたの二回目か三回目くらいじゃない」
小声で尋ねればそう返ってきて、貴重な場に居合わせたらしいとなんだか得した気分になった。
ルックを呼ぶクロスの声に応じてルックが厨房へと姿を消す。
一人残ったササライは、だいぶぬるくなった紅茶を飲みながら、今夜の夕餉について思いをめぐらせる。
久々のまとまった休暇に、よかったら遊びにおいでよと誘ってくれたのはレックナート経由でササライの休みを知ったクロスだった。
誕生日の祝いもできなかったし、と言うクロスに、祝いについては固辞させてもらったものの(ルックからシグール達もどこからか沸いてでるからやめておけと忠告された)、夕餉の誘いには応じさせてもらって。
最近のヒクサクとレックナートの話をしたり、ちょっとした贈り物をいただいたり、ルックの所蔵している本を見せてもらったりと穏やかな時間を過ごし。
数十年前には想像もしていなかったなと当時を思い出して笑みが零れる。
少なくとも、ルックと睨みあいもせずに和やかに本の貸し借りをするだなんてあの頃の自分は信じたりしないだろう。
厨房にルックが入ってから数分経つが、何も音は聞こえてこない。
いったいどんな失敗をしたのだろうとささやかに想像力を働かせてみる。
使う食材を間違えたのか、煮すぎて形を崩したか、はたまた何か焦がしたか。
調味料を間違えたのが一番大きな失敗になりそうだが、クロスのことだからうまくカバーしてしまう気がする。
何にせよ、多少失敗したところで食べられるのならばさして問題ないと思う。
ササライのお祝いだからとはりきってくれていたけれど、誰かと囲む食事の場が何よりも嬉しいのだ。
「どうだった?」
戻ってきたルックに声をかけて、ササライはおやと首を傾げた。
ルックは言葉を濁しながらソファに座らずに部屋を出ていこうとする。
「ちょっと……スープが予定と違うのになるけど、うん。ごめん」
素直に謝られて面食らう。
「え、どしたの」
「今回は僕が悪い」
続けるルックの言葉がまた不可解で、ササライはさらに疑問符を頭上に浮かべる。
それからルックは足早に部屋を出て行ってしまった。
少し考えて、ササライは厨房へと足を向ける。
客人が人様の家の厨房を覗くのはあまり行儀がよくないが、どうにも気になった。
厨房へ入ると、ふわりと甘い香りが鼻を突いた。
菓子や果物とはまた違う、まとわりつくような甘さだ。
夕餉にしてはそぐわない香りに、火の近くにいるクロスのほうへ進むと、ササライに気づいたクロスがなんとも複雑そうな顔をした。
「ごめん、ササライ。昨日から仕込んでたんだけど……」
「せっかく作ってくれたものなんだから、気にしないのに」
「いや、さすがにこれはシグール達にも出すのをためらう」
「…………」
それってどういう、と鍋の中に視線をやって、言葉は喉の途中で止まった。
鍋いっぱいに煮込まれた、刻んだ野菜や燻製肉。
色鮮やかだったろうそれらは今はスープと同じ色の液体にまみれ、斑になっている。
甘ったるい匂いをまきちらすスープはこってりとした桃色となり……なんというか、厨房というより、これは。
「調味料の棚にルックの研究用の薬剤が混ざっちゃってたみたいで……」
ササライの表情から心境を読み取ってクロスが説明する。
どうやら色々と買出しをした時に、ラベルが剥がれていた薬品の小瓶が調味料の中に混ざってしまっていたらしい。
赤い色をしていた粉末を、香辛料と思って振り落とした瞬間にこの有様になってしまい、ルックを呼んだということか。
「僕の部屋にあるのが香辛料ってことだね……道理で何も反応しないと思ったんだ」
戻ってきたルックは少し大きめの瓶を持っていて、スープをすくうと瓶の中に入れていく。
まだ湯気のたつそれはフタをせずにしばらく暗所においておくらしい。
「残りは廃棄していいよ。というか僕が廃棄するから……洗うにしても、ちょっとこれでスープは作りたくないよね」
「表面がうっすら溶けてきてる気がするんだけど」
「新しいの買おう」
即答してルックは風を起こすと鍋をふわりと持ち上げた。
瞬時に消えた鍋は果たしてどこに消えたのか。
「……ところで、どうするんだい、それ」
「さすがに食材と混ぜ合わせたことなかったから、研究材料に。どの成分が反応起こしたか調べるよ」
「…………」
ただでは起きないとはまさにこういうことか。
「さすがにあれは作り直しだよねぇ」
「人体に害がないかどうか調べるならテッドあたりに食わせる? あいつなら死なないんじゃない」
「毒ならジョウイもじゃないっけ」
「あれは解毒剤先に摂取してただけだしなぁ」
日常会話のはずなのに恐ろしくしか聞こえない会話にササライは顔を引き攣らせるしかできない。
「あ、ササライにはもちろん出さないからね! 今からスープ作り直すからもう少し時間かかるけど、ごめん」
「なんだったら僕の研究見学する?」
「……うん、そうさせてもらおうかな」
なんだかんだで興味が勝った瞬間だった。
ちなみに夕食に出てきたスープはちゃんとしたスープの色をしていて、ちゃんと美味しかった。
あの桃色スープがテッド達の口に放り込まれたのかは恐ろしくていまだ聞けていない。
***
「彼らの仲のよさをほほえましくは思いますがあの関係性になりたいかと言われれば即答でNOです」