<とある酒にまつわる話>
波が立つたびに揺れる足元が懐かしい。
砂浜での海水浴含め、久しく海に来ていなかった。
ましてや船旅などいつぶりだろうかと、テッドは一時期船の上の住人をしていた頃の事を思い返しながら、今回の航海を計画したシグールに視線を向ける。
シグールは先程からこの船の船長でもある水夫と何やら話し込んでいた。
その会話の内容は、テッドの耳までは入ってこない。
数日前にいきなり「群島に行こう!」と言い出した時は、何か掘り出し物の噂でも耳にしたのかと思ったが、ルックを呼んでひとっとびするでもなく馬車を使っての移動をするというから不思議ではあった。
掘り出し物なら、早く行かないとなくなってしまうだろうに。
しかしこの様子を見るに、どうやら別事を企んでいるようだ。
船長との打ち合わせを終えて近づいてきたシグールに、何度目かの問いを投げる。
そろそろこちらの痺れも切れてきた。
ここにくるまで何度尋ねても、シグールは笑うだけでヒントひとつ寄越しやしないのだ。
「なぁ、シグール。なんだっていきなり船旅なんだ?」
「えー? 気になる?」
気にならないなら何度も聞いたりはしない。
含んだ笑みを浮かべるシグールにじと目を送ると、ふふふ、と更に含んだ笑みを深くする。
船旅を決めてからというもの、度々見せる笑顔だ。
「いいじゃねぇか。な? 一生のお願いだ」
「テッドの一生のスパンって、セミみたいだよねぇ……」
「約六年に一度ならよくねぇ?」
「そうだった……セミって地下生活長いんじゃん」
しまった、とシグールがやけに悔しそうにしている。
地上生活だと一週間かそこらだろうが。さすがにそこまで頻度高くねぇよ。
「まぁ、いいけどね。そろそろ着くし」
一生のお願いを聞いたのかそうでないのか、シグールはテッドの横に立って、懐から古ぼけた紙片を取り出し掲げた。
「じゃじゃーん!」
「なんだその薄汚れた紙」
「この間買った本を読んでたら、間にこれが挟まってたんだよね」
四つに折りたたまれたそれを開くと、黄ばんだ紙には掠れたインク文字。
そのほとんどは経る年月で消えてしまったのだろう、擦れ読めなくなっていたが、かろうじていくつかの単語が拾えた。
目を細めて、それらを口に出していく。
「えーと……イルヤ、海、10.4……?」
「そそ。で、これ。ここ。酒って読めるじゃない」
シグールが示す紙片の中央あたりには、たしかに酒と読める場所があった。
その前についた接語はごくごく薄くなっているためどんな酒かまでは分からないが。
「イルヤって、イルヤ島だと思うんだよね。海ってあるし。で、こっちがたぶん距離を示す」
「はぁ。それで?」
「きっとこの場所に、幻の酒があると思うんだ!」
目をきらっきら輝かせて声を張り上げたシグールに、テッドはとことんうさんくさいものを見る目を向けた。
なるほどそれで船旅なんてしようと思ったのか。
数百年前に漂っていた海の詳細な海図など覚えていない。
指定の海域に何があったかは覚えていないが、イルヤ島の近くなのだろうか。
「ううん、海図を見るとどこまでも海が広がってるだけなんだけど。海中に沈んでると思うんだよね」
「ほう」
「海で熟成したお酒……いいよねぇ……!」
まだ僕飲んだ事ないんだ、とまだ見ぬ酒に思いを馳せているシグールに相槌を打ちながら、改めて紙片の文字を見る。
紙の状態を見るに、かなり古いものだろう。
海で熟成した酒はそこそこ珍しく、テッドも放浪生活の中で飲む機会にありつけたのはほんの数度だ。
海での熟成は、波に流されたり嵐などで入れ物がダメになったりとコストが高いため、そもそも作られる事が少ない。
「だいたい、美味く仕上がってるかも、ほんとにあるかもわかんねーのによく探す気になったな」
「だってここに唯一の、ってあるもん。世界にひとつだけのお酒、絶対手に入れたい!」
「…………」
興奮気味に拳を握るシグールのその魂は、酒を飲みたいからか売りたいからか。
それにしても、さっきから何か引っかかるのはなんだろうか。
シグールに借りた紙をしげしげと眺めながら、頭の隅に引っかかっている何かを思い出そうとしている間に、目的に海域へとたどり着いた。
船長の指示の下、水夫達が海中へと潜っていく。
素もぐりでいける水深なんだろうかと思いながら、船のへりでその様子を眺めるテッドの背後では、シグールと船長が今夜の酒盛りについてあれやこれやと打ち合わせをしていた。
気が早い気がするが、何がなくとも酒盛りは予定に組み込まれているのだろう。
海の男ってほんと酒が好きだよなぁ、とかつて船に乗り合わせた水夫もとい海賊連中のことを思い出したい出したテッドは、ん、と首を傾げた。
「酒……酒……………海の、酒」
飛沫の音をBGMに、もう一度手の中の紙へと視線をやる。
なんだろう。どこだったっけか。
たしか……ええと。
「もしかしてこれじゃあないですかね!?」
盛大な飛沫音をあげ、水夫の一人が脇に抱えられるほどの瓶を手に浮上してきた。
いそいそと船へあがってきて、確認をしてもらおうと床に置かれたそれを全員が覗き込む。
撒きついていた海草がはがされた下、こびりついた泥の間に見えた模様の一部に、引っかかっていた最後のピースがカチリと嵌った。
「……まさか」
シグールが泥をぱぱっと簡単に払う。
その下に現れた、色褪せはしたけれど間違えようのない刻まれた文様に、テッドは今度こそ顔を引き攣らせた。
たしかこれを、帆に掲げていた連中がいたはずだ。
「水音がするなぁ」
「酒ですかね」
「匂いは……んー、潮の匂いに紛れてあんまりよくわかんないや」
「それほど強いのじゃないんですかね」
シグールと水夫の会話が右から左へと抜けていく。
その壷が何であるかを思い出したのと同時に、芋づる式に当時、なぜその壷が水中に沈むに至ったかのエピソードが脳裏に思い出される。
忘れていたはずの記憶に冷や汗を流し始めたテッドの目の前で、試しに一口と瓶を傾けようとしたシグールに我に返って、テッドは慌てて静止の声をあげた。
***
何があったのか。