<故郷 3>
朝食は宿で取れるからと、翌朝早々に出て行ったシーナを見送って、アップルは一人でホットミルクを飲みながら部屋に座っていた。
――よりを戻してほしい。
笑ってしまうくらい身勝手な言い草なのに、どうしてこんなに迷っているのだろう。
女々しい自分の感情をアップルは必死で叱咤する。
プロポーズを受けた時だってそうだった。
迷って、迷って、だけど彼がどうしても好きだったから結婚する事にした。
後でどれだけ後悔したか。
だって周りの人は反対したじゃないか。
あの浮気性の男と結婚したら泣くのはアップルの方だと。
それなのに彼の上っ面だけに揺らいで傾いてしまったのは自分だったのに。
「ズルい……」
こんなに自分をかき乱して、去っていったあの男が憎い。
忘れてしまいたくて、事実グラスランドにいる間は忘れていることができたのに。
彼の顔も、声も。
ホンモノなんか数えるほどもないはずのあの言葉も。
言おう。
決意してアップルは立ち上がる。
よりを戻すつもりはないと。
友人として顔を合わせるのは嫌じゃないけど。
彼の隣に女として立つ勇気は、もうない。
嫌いになったわけでは、ないのだと思う。
結婚したいと、「枷」を相手につけてでも、自分のそばにいてほしいと願ったのは彼だけだ。
だけど、愛するだけではどうにもならなかった。
あの人にはそれだけでは足りなかった――今となっても、どうすれば彼を留めておけたのか分からない。
もしかすると不可能だった事を、いまだに思っているのかもしれない。
友達でいれば、ずっと彼は手に入らないアップルの事を追いかけてくれただろうか。
そんな愚かな考えを、微苦笑して振り去った。
結婚して、一年も持たずに彼は浮気した。
だけど、それまでの毎日は、アップルの人生で一番、幸せだったのだ。
それを手放す気はなかった。
――うれしーな、家に戻ったらアップルがいるんだぜ。俺だけの、奥さんが。
子供のように笑って言った彼を思うと、結婚しなければよかっただなんて、思えなかった。
だから過去を否定はしない、けれども同じ事は繰り返せない。
「もう、私に後悔をさせないで」
あの時はまだよかった、子供の恋で子供の悲しみ。
シーナとアップルは互いに結婚する事で何かを失ったわけでも、逆に何かを得たわけでもなかった、ただそれまでの日常が少しだけ形を変えただけ。
だけど今はもう違う、シーナもアップルも結婚すれば決定的な何かが変わる。
シーナとて当時とは違って今では立場のある身だ、アップルだってかつてほど無名なわけではない。
今度もし、別れたら。
いい歳の女の嫉妬は醜いし。
……自分より若い娘に彼が浮気をする事を考えると、心穏やかではいられない。
「やっぱり、だめよね」
彼の言葉を思い出すと、一瞬だけ心に差し込む光。
ほんのわずかに緩まる鎖。
あの日、泣きながらあの家を去ったあの日、もう二度と恋などしないと誓った。
二度と誰も愛しはしないと。
それは厳密に言えば、「二度と彼以外は愛さない」だったのだ。
だって今、これほど心が揺らぐ。
だから言わなくちゃ。
あなたとはやり直せないと。
言わなくちゃ。
この決心が鈍る前に。
宿屋にもうシーナはいなくて。
仕方なくアップルはグレッグミンスターまで足を向けていた。
ばかみたいだと思う。
だって、そんな日帰りできる距離ですらないのに。
けれど、また彼が来る日を待っていたら心が折れそうだった。
「あの」
「はい、なんでしょう」
首都には「受付」というものができていた。
それをつくるように言ったのはたしかシーナだったのを覚えている。
当時のアップルはまだ幼くて、しかも共和制というものにまったく理解がなかったので彼がそんなものを作りたがったのはただ受付に待機する女性と話がしたいがためだろう、と思っていた。
あるいは城で働いている娘を呼び出すためなのだろうと。
だけどそうではないのが今なら分かる。
よくできたあの弟子ならふーんと呟いて「そりゃいいや」とでも言うのだろう。
共和制なら、民の声を聞き届けるのなら、「受付」というここで働く人へ繋げる仕組みは必要だったのだ。
納得をしながら、アップルはゆっくりと受付へと向かう。
当分待たされる覚悟はなんとなくできていた、実家とここを往復しているのだ、さしものシーナも忙しいだろう。
「ここで働いている人に、会いたいのですけど」
「はい、あなたのお名前に、その方のお名前と役職をお願いします」
「私はアップル。相手は……役職は――わからないけど、名前はシーナ」
告げた瞬間、女性は――歳はもう五十を過ぎていそうな白髪まじりの女性であったけれど――顔色を変えた。
悪くではなく、紅潮させたというか。
「あら……まあまあ、シーナ様ですか?」
「え、ええ……」
何だと思われているのだろう、と嫌な予感を抱きながら、彼の呼ばれ方に時間が過ぎているのを感じた。
自分が彼の隣にいたころ、この城の人は「シーナ坊」とかせいぜい「シーナ殿」に留まっていた。
それが「シーナ様」とは出世したものだ。
ぼんやりとそんな感慨に浸っていると、女性は笑顔で立ち上がってアップルの手を引いた。
「さあさ、かまいませんよ、こちらへ」
「え」
「いいんですよ、中へどうぞ。アップル様ですね、お噂はかねがね」
お聞きしていますよ、とうれしそうな彼女に、どの噂か尋ねる事はできず、気まずいままアップルは連行されていく。
大広間を抜けて階段を上がる。
謁見室を抜けた先にあるのは、多くの文官や大臣が働く執務室だ。
「こちらでお待ちくださいね」
「あ、いや、でも」
これじゃあまるっきり不審人物だ。
そう訴えようとしたアップルに、受付の女性はもちろん気を回してくれていた。
「ほらほら、しっかり護衛してさしあげてね」
「おや……本当にご本人だ。お久しぶりです、アップル殿」
意外そうな声を上げた後、一礼してきた人物がいた。
銀と緑の鎧を着込み、腰には剣を帯びている。
茶色の少し長めの前髪の後ろに隠れて、やや優男風の風貌が覗く。
見かけはやや年を経たかもしれなくても、その声は変わってなどいなかった。
「グレンシールさん……?」
「お久しぶりです、アップル殿。ご高名、こちらにまで届いておりますよ」
「えっ……そんな、たいしたものじゃ」
「いえいえ、わが軍でも教本として採用させていただきました。なにせかつての英雄を支えた名軍師の歴史――あなたの為した業績は偉大です」
あれも褒めていましたよ、とグレンシールは微笑みながら伝えて、まだ変わらずに彼らはこの国を守護しているのだとぼんやりアップルは思った。
アレンにグレンシール。
アップルは自ら彼らと接触を持とうとはしなかった、だって彼らはテオ=マクドールの騎士であったから。
けれど師、マッシュは彼らとよく話し合った。
裏切るかもしれないというアップルの叫びに、彼らはそんな人ではないよと。
「本日はシーナ様をお訪ねですね」
「え、ええ――そんな急ぎではないのよ、なのにこんなところまで」
「ええ、シーナ様も手がお空きではないようですから、よろしければ私がご案内します」
こちらへ、と示されたほうへグレンシールの隣を歩きながら、アップルは廊下を見回した。
ここは変わらない、記憶と、何も。
だけど変わったもののが多いだろう、働く文官は皆アップルの知らない顔だ。
それと、もう一つ。
「ねえ、グレンシールさん」
「なんでしょうか」
「せっかくだからレパントさんにご挨拶をしてもいいかしら」
それはいい考えですね、とグレンシールは同意してアップルを別の方向へと導いた。
彼女の半歩先を歩くグレンシールは、彼女の記憶にある限りではシーナの事を煙たく思っていたはずだった。
アレンほどあからさまではなかったが、いくら父親が大統領であろうとも世襲制ではないのだからその息子はまったく別物であると――正しい見方をしていた人だった。
その彼がどうして今、シーナへ敬語を使うのか。
自分がいなかった時間の重さを感じながら、アップルは大きな部屋の前を通り過ぎようとしていた。
扉のないその部屋は、たしか文官の政務室の一つであったはず……。
「治水の書類がきてないぞ」
響いた声に足を止めた。
「こちらです!」
「工事費用の見積もりはしておいた。問題は予算だな、今会議中なはずだが」
聞き間違えるはずのない声。
いつも自分に話している時よりずっと真剣で、鋭い。
「シーナ様! 会議の結論がたった今! 予算は申請の九割で通りました」
「不足分は先日の余剰金をあてがう。すぐに作業を始めさせろ、雨が降ってからでは遅いんだからな」
「はいっ!」
バタバタと足早に文官が部屋を出て行く。
それを無言で見送っていたアップルに、グレンシールはわざわざ説明をしてくれた。
「シーナ様は現在、大統領書記官をしていらっしゃいます」
「大統領……書記」
「むろん身贔屓ではありませんよ、むしろレパント様が拒んだのを、無理に回りの大臣が推したと聞いています」
部屋の中で、高そうな衣装を適当にまくって机の上に直接腰かけ、せわしなく書類を捲りながら指示を飛ばす。
それはきっとどれも的確なのだろう、文官たちはそれが最善だといわんばかりの表情で従っていた。
自分達より若いシーナの命令に、全員が。
「シーナ様、少しお休みになっては」
「大丈夫だ。そっちこそほどほどに休めよ。親父と同じでいい歳なんだから」
静かに笑い声が広がる。
部屋の外でそれに混じって小さく笑ったグレンシールは、静かに部屋の中を見つめていたアップルに声をかけた。
「アップル――殿」
「……今日は、帰るわ」
ほとんど聞こえないほどの声で、アップルはそう呟く。
部屋に背を向けて横を通り抜けていく彼女の目は、とても穏やかで。
「では、入り口まで」
自然とグレンシールの顔も穏やかなものになった。
何も考えず適当に宿に入った。
本当に部屋を頼んだ時の事を覚えていない。
「まあ……いいか」
そこそこ上質のベッドに倒れこんで、眼鏡を取り去って溜息を吐いた。
この街には、たしかあいつのあの大変身の程知らずで失礼な発現を却下しに来たのだ。
そうだ、そうだったはずなんだ。
それなのに、どうしてだろう。
(そう、そうよ、結局嫌いじゃないのだもの……)
嫌えたらとは何度か思ったけれど、結局彼を嫌えた事など一度もない気がする。
いつまでも彼を引きずる自分の女々しさが嫌だったけれど。
(……そう、ね)
あんな姿を見たらもう、どうしようもないじゃないか。
(好きだもの)
彼の事が、好きだもの。
だからこの宿屋にきたら、迎え入れて答えを聞かせてあげよう。
***
終わり。
思ったより最終話だけ短くなった。
本当はこの後の二人の会話があったけどそら寒くなったので切りましたorz
そういや我が家設定では坊とシーナは同い年だ。