<故郷 2>





ぱたぱたとはたきをかけて、アップルはふう、と溜息を吐く。
今日からこの教室を開いた。
前身のマッシュは有名だし、アップルはその直接の弟子という事で知っている人も多かった。
当時はやや風当たりが強かった覚えがあるが――今はすっかりそれも鳴りを潜めている。
本日、親とともに、または友達と一緒に訪れた子供達は、興味深そうに本を広げたり色々な質問をしてきたりと、幸先はなかなかよさそうだ。

ここで、生活していくのだ。

そう思うと、少し感慨深い。
師のように、自分もできるだろうか。
でも、あの時マッシュ先生が自分を引き取ってくれたからこそ今の自分があると思うと、がんばりたいと思う。

一通り片づけを終えて、アップルはそろそろ夕食の支度をしなければと思ったが、まだそれほど日は暮れていない。
明日の教材でも準備してみようかと思いつつ、適当な本に手をかけてふっと思い出した。


コウアンで思わぬ再会を果たした元夫のシーナは、翌日シーザーの手紙片手に宿に現れた。
現れたは現れたが、アップルは前日彼の言った言葉に怒っていたし、シーナは返事をせっつく事もせず、あっさりと手紙を渡してそれに終った。
昔なら、その事をネタに散々アップルに迫っただろうに、そのあっさり具合に本当に拍子抜けしてしまった。
あれが成長というものだろうか……。

そんなシーナは「たまには寄っていい?」の質問をしたっきり、ここ一週間音沙汰はない。
別に――待っているわけではないのだけど。
来たらお茶の一杯くらいは出すかな、と思えるくらいにはアップルも落ち着いて考えられるようになっていた。
これまた昔なら問答無用で叩き出していたのだろうが。
これも成長かもしれない、達観かもしれないが。


軽いノック音がした。
生徒が戻ってきたのかと思って、アップルははーいと言いながら扉を開ける。
生徒にしては妙に高い身長だと思って、次の瞬間思わず一歩引いた。
「いい?」
「……い、いわよ。こんな時間によく来たわね」
戸惑いながらも扉を開けて、彼を迎え入れる。
数歩踏み込んで、シーナは部屋の中をぐるりと見回した。
「へえ、いいなここ」
「ありがと」
「あ、これ土産。夕飯まだ作ってないなら」
渡されたバスケットの中は、まだ温かいシチューとパンが入っている。
それと、一本のワイン。
そういえばシーナはありとあらゆる食べ物にうるさかったが、ワインは特にうるさかった。
生半可なものでは満足せず、不味いくらいならない方がいいとまで言い切っていた。
なおこれは父親も同じらしい。

「二人分、ね」
中を確認してからやや白い、目を向けると、シーナはぎくりという表情になる。
「それはまあ……ご一緒してよろしいですかね」
「まあ、いいわ。私も作る手間が省けたんだし」
溜息と共にそう言うと、シーナはわずかに笑う。
それは知り合った頃のいささか子どもっぽいものでも、付き合っていた頃の快活なものでもなかった。
すこし寂しそうな――顔。
「変わんないなー、アップルは」
「そう? 変わらず子どもっぽいって意味かしら」
「そうじゃなくて、厳しいけど最終的に優しいとこ」
外套を脱ぎながらそう言われ、アップルはバスケットをテーブルの上に置いて、そうねと呟いた。
自分に欠けていたのはたぶんそれ。
詰めが甘いと、いつも言われた。
「だから軍師には向いていなかったわね」
この間まで彼女に師事していたシーザーは、日頃はともかくここ一番と言うところでは見事な冴えを見せた。
それはたぶん、目の前のこの男もそうなのだけど。
「向いてなかった? でもシュウさんは」
「……シュウ兄さんは、副軍師としての私を認めてたのよ」

そう、アップルに大軍を率いて不利な戦況を制す力はない。
それは十分自覚していた。
五分の戦いならまだしも、不利な戦いを勝利に導ける器量はない。
「やめましょう辛気臭くなる、あら――これ」
「相変わらずつまらないことばかり覚えてスイマセン……呆れた?」
その銘柄はアップルが好きなワインの銘柄だ。
結婚する前にぽろりとこれがおいしいと言ったっきりだった気がするのだが。
「……呆れる以前に驚くわ。まあでもありがとう」
ワインを置いて、グラスを取り出す。
栓抜きなんて置いてあったけとキッチンに向かおうとしたアップルに、いいよとシーナは言うと、取り出した小型の折りたたみナイフで器用に栓を開けた。
「食前酒と言うことで」
グラスに注がれた赤い液体にアップルは口をつける。
最初わずかに舌先で味わってから、一口分を含み、飲み込む。
南方のワイン独特の、フルーティーな味わいが爽やかに残る。
「美味しい」
「よかった」
満足気なアップルの溜息に、嬉しそうに笑ってシーナはワインを置く。
「シチューが冷めるのはもったいないわね、少し早い気もするけど、食べましょうか」

そう言ってアップルはてきぱきとバスケットから物を取り出し、棚の中から皿を出して、すでに切ってあるパンを並べシチューを注ぐ。
ことりと皿を片方の席に、そしてその向かい側にもう一セット置いて、アップルは怪訝な顔でシーナの方を向いた。
「いつまでそこに立ってるの? そっち座りなさいよ」
「あ――いや、手伝おうと思ったんだけど」
手伝うまでもなかったから、と言ってシーナは勧められた席におとなしく座る。
食事を準備を整えて、アップルは蝋燭に新たに火を灯した。

少しだけ――昔を思い出す。
そう考えた自分が気恥ずかしくなって、顔を上げたアップルの目の前には再び満たされたグラスがあった。
「乾杯」
「……乾杯」
シーナの言葉に合わせて、軽くグラスを触れさせる。
かちゃりと特有の音が耳に心地よく響いた。










夕食を食べながら他愛もない話をして、シーナはグラスに残ったワインを飲み干して立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ……」
「ああ……そうね。宿は取ってるの?」
「取ってるよ、一人身の女性の家に泊まるわけにはいかんだろ」
笑んでそう答えたシーナに、アップルはそ、そうよねとこくこく頷いて返す。
昔の彼なら……取っていないといって、無理矢理にでも泊めてくれるようにせがんだだろうに。
……ああ、そうか。
もう彼は昔のままの彼ではないのだ。
アップルの心をかき乱し、深い喜びと悲しみを植えつけた無邪気に残酷な青年ではないのだ。
一歩引いて落ち着いて他人行儀の対応ができる、大人になったのだ。

それは自分もそうなのだろうとアップルは納得した。
昔の自分なら、これから女のとこにでもいくのだろうと苦々しく思ったに違いない。
けれど今は分かる、すんなりと「宿は取っている」という言葉を飲み込めた。

自分達に欠けていたのは、これだったのだろうか。

「じゃあな」
立ち上がって外套を羽織ったシーナは扉に手をかけて振り返る。
ええ、とだけ言ってアップルは空になったバスケットを差し出した。
「ありがとう、美味しかったわ」
「それはよかった」
きいと扉が開く。
バスケットを片手に、彼の後姿は闇の中に溶けていく。

無言でそれを見送って、アップルは静かに戸を閉めた。










月日は過ぎる。
ゆっくりとそれでも容赦なく。

アップルがセイカに腰を落ち着けてから、半年が経っていた。
季節は移り変わり、今は冬の終わりだ。


「久しぶり」
軽いノックの後入ってきた彼を、アップルは笑顔で迎える。
「久しぶりね、仕事の調子は?」
「まー、そこそこ。親父がそろそろ引退したいってぼやいてるよ」
笑ってシーナは今日の土産を机の上に置く。

訪れるのは月に幾度か。
離れていた間の時間は、気付く事もなく埋まっていた。
互いに大人になったのだと思う。
あの時はまだ相手のことが分からなくて、分からないから苛立って、苛立つから嫌いになって。
嫌いだけど好きだから、そしてもっと分からなくなって。
そんな悪循環は、互いに年を経ればぷっつりとどこかで切れてしまう。

きっと、分からないから苛立つ事がなくなったのだろうと思う。
分からなければ話せばいいし、それでも分からない事を無理に分かる必要はないのだ。
どんなに大事な相手でも、相手の事が全部分かるはずもないのだから。


「……すぐりのパイ、どうしたの? まさかあなたが作ったんじゃないわよね」
冗談めかして笑ったアップルに、シーナはまさかと肩を竦める。
「母さんだよ。アップルのところに行くって言ったら持たされた」
「そう……お礼を言わなくちゃ」
「手紙でも出してやってくれ、喜ぶ」
そうね、と微笑んでアップルは台所へパイを持っていく。
「食べていくでしょう?」
「――ああ」

トントントン、と心地いい包丁の音が聞こえる。
台所に立っているアップルが作っているのは、追加のシーナの分だろう。
前触れも何もなく突然押しかける彼を、彼女は何も言わずに迎え入れ、夕食を出してくれる。
互いの近況や仕事や、その他当たり障りのない話をし、夜が更ける前にシーナは宿へと帰る。
そんな事を繰り返していた。


「質素だけど、どうぞ」
アップルの持ってきた食事に、シーナはいただきますと呟いて食べ始める。
一口二口食べて、美味しいと笑った。
――そう、彼は食事にはうるさいくせに、アップルの作った料理は食べていた。
普通の少女のような花嫁修業なんて縁のない生活を送っていたから、最初の頃はさぞかし不味かっただろうに、それでも文句は言わなかった。
必ず口に入れていくつか食べて、今日はこれが美味しいだの昨日より今日のが美味しいだの、何かしら褒めるところを見つけては言ってくれたのをよく覚えている。
「変わらないわね」
「何が?」
「料理、絶対食べてくれる。必ず褒めてくれて」
「だって、俺のために作ってもらった料理だから。それに女性に作ってもらった料理を残すなんてそんな」
「……相変わらずですこと」
そんな事だろうと思ったわと苦笑して、アップルは食事を始める。
その様子をじっと見ていたシーナは、変わったなと微笑した。
「前は怒ったろ」
「そう、だったかしら?」
「うん、顔真っ赤にして「私を一緒にしないで!」ってさ」

そうだったかもしれない、とアップルは思い出した。
シーナが自分を「女性」と扱ってくれるのは嬉しかったけど、嫌だった。
彼が遊ぶその他大勢の女性と、何も違わないと分かっていたから。
「私も大人になったのね、きっと」
「――まあ、料理の腕は大人になった。正直昔は食えたものじゃなかったし」
「言ったわね……」
睨んだアップルの前でくすくす笑い出したシーナに釣られてアップルも笑い出す。

そのまま穏やかに夕食の時間は過ぎていった。




「――じゃあ、そろそろ」
行くかな、と立ち上がったシーナは見送ろうと同じく立ち上がったアップルから外套を受け取って、扉に手をかけて躊躇する。
「どうしたの?」
「……全然気付かなかった、見てみ」
外を指差した彼の背後からアップルは外を見る。
一面の銀世界が広がっていた。
「――やだ、いつの間に……」

ここらはさほど厳しい気候ではないが、冬は確かに雪がちらつく。
けれど今は晩冬、この積もり方は尋常ではなかった。
「参ったな、結構積もってる」
雪に足を差し入れて深さを調べたシーナが、困ったように眉を寄せた。
「明日の街道は通らない方が懸命だな……」
「数日は気をつけた方がいいわね。この雪が溶けたら道がぬかるむし」
「そうだな」
お前も気をつけろよ、と言ってシーナは一歩外に踏み出す。
深深と降る雪がすぐに彼の肩に積もりだす。
「ちょっと、傘ぐらい――」
「いいよ、ないと困るだろ。宿だってそんなに遠くない」
「けどっ」
この教室は、町からやや離れたところに立っている。
雪の中、足下が危ないのに、小さな崖の様子を呈している山道を歩いて下るのはいささか危険だ。

「……シーナ」
「ん?」
すでに何歩か外に出ていたシーナは、アップルに声をかけられて振り向く。
「今日は泊まっていきなさい」
「――……いいの?」
そう聞いた時のシーナの顔は見えなかった。
見えない方がよかったのかもしれない。
「ええ、一人寝るくらいの用意ならできるから」
そう言ったアップルが中に引っ込むと、シーナはゆっくりと回れ右をして家に戻った。





教室の一角にマットと布団を敷き、毛布をかぶせる。
これでいいかしらとアップルに問われ、十分とシーナは頷いた。
「ほんとに良かったわけ?」
「――いいわよ、この天気の中どっかに埋まってないかと心配する方が迷惑」
そう言ったアップルの視線の先は、吹雪が窓に叩きつけている状態だった。
――どうやら、あの直後に天候は悪化したらしい。
「少し固い寝床だけど……」
「いーっていーって。こう見えて昔は野宿とかしてたしさ」
からりと笑って即興の寝床の横に靴を脱いだシーナは、手に持っていた蜀台を揺らしてじっとアップルを見つめる。
部屋全体の灯りはもう消してしまっているから、ここだけが唯一の光源だった。
揺れる蝋燭に二人の顔が陰影を強調させながら浮かび上がる。
友人が就寝の挨拶を切り出すには不自然に長い沈黙が落ちる。
先にそれを破ったのはシーナだった。

「……アップル」
「な、なあに」
上ずった声で答える彼女に、シーナは真面目な顔を崩さない。
「前に言ったのは、冗談じゃないからさ。もう一度考えておいてほしいんだ」
「前に言ったの……?」
思い出せず目を泳がせるアップルに、シーナはああ、と答える。

「よりを、戻してほしい」

自分をまっすぐ見つめる瞳。
昔より僅かに低くなった声。
年を重ね精悍さを増したその顔に。
不覚にも胸が確かに大きく鳴って、アップルは唇を噛む。
「俺がそんなことをお願いできる立場じゃないのはわかってる。けれど半年、会ってて思った。やっぱり俺は、お前がいいんだ」
「そ、んなの、いまさら……」
うん、いまさらだからな。
やわらかく笑ったシーナは蜀台をアップルの手に渡す。
「おやすみ、アップル」
「……おやすみなさい、シーナ」

目を伏せて呟いたアップルは、ゆっくりと自分の私室に入る。
音がしないように扉を閉じて、内側に無言で蹲った。

胸が熱い。



 



***
次でヨリが戻ると思う。
シーナががんばってる。
大人なシーナは楽しい。

(シグールもあのまま成長したらこうだったのかなぁ byテッド