<流浪人の星>





ひたひたと目の前を歩いてよぎっていく彼女の肩を掴んで、呆れた声を男は出した。
「お前なぁ……髪くらい乾かせよ」
「面倒じゃ」
「面倒って……そこ座れ、乾かしてやる」

逆らう理由もなかったので、シエラは指差された場所に腰かける。
すぐに綺麗なタオルと櫛を持ったナッシュが、背後に回る気配がした。
「痛い」
「文句言うなよ……しかしあんたの髪が絡まってるのも珍しいな」
「……」
髪をゆっくり梳かしながら、ナッシュはシエラの髪を乾かしていく。

丁寧に丁寧に水気を取る手つきが妙に慣れていたのが気に障って、シエラは足をぶらぶらさせながら、何気なさを装って尋ねた。

「して、髪を乾かすのが上手いのも女口説きの手法かえ?」
「……嫌味かよ」
苦笑いをして、ナッシュは作業を続ける。
「妹の髪をよく乾かしてたんだよ」
言いながら、ナッシュはシエラの髪を大方乾かし終え、梳く作業に入っていた。

ゆっくりと櫛が通っていく感触が心地いい。
「まったく、綺麗な髪持ってるんだから少しは気を遣えって」
「……綺麗かえ」

シエラの銀髪は生来のものではない。
吸血鬼の始祖となった時に銀に染まった。
もちろんこの赤い目も同じだ。
「おっまえ……女の子に聞かれたら怒られるぞ?」
「ふん。わらわも好きでこの色になったわけではないわ」
「あ……そうか、そーいやアイツも銀だったもんな」

アイツが誰を指しているか明白で、シエラは顔を曇らせる。
とうに葬りたかった過去は、つい最近までしこりを残していたのだから。
そう、彼は、元は金の髪を持っていて。

「でも似合うからいーじゃねーか」
はい終わり、とシエラの頭を軽く叩いてナッシュが彼女の傍から離れる。
「……叩くな」
「あのなぁ……感謝の言葉……はないか」

期待した俺がばかでしたよーと呟きながら、ナッシュは自分のベッドにもぐりこむ。
部屋の反対側にシエラのベッドが、彼女の荷物と共にあった。

「俺はもう寝るが――明かりは消してもいいか?」
「勝手にせい」
へいへい、と言ってナッシュは明かりを最小限に絞る。
一気に暗くなっても、夜目の利くシエラには十分な明るさだ。

「……のう」
「ん〜?」
寝ぼけたような声だったが、一応ナッシュは返事をする。
「似合うかの」
「シエラ、どうした?」
むくりと上半身を起こしたナッシュに、シエラは手元にあった彼の上着を投げる。
「起きなくともよい、答えんか」
こんなに暗ければ、ナッシュはシエラがどこにいるかも分からないだろう。
もちろん、その表情も。
「なんかさっきからおかしいぞ?」
「もうよいわ」
椅子から立ち上がって、シエラは自分のベッドに向かう。

聞くのではなかったと、らしくない後悔をした。
どう答えられたって、それは。

「――闇夜煌く月の色。魔を跳ね返す銀の色」
「……おんし、詩人に鞍替えだけはやめておけ」
「ぐ……ひっでーな」

恥ずかしい事言わせやがって、とぶつくさ言う声がしばらくしていたが、すうすうと寝息の音がそれに取って代わる。
シエラはすっとベッドから下りて、足音なくナッシュの枕元まで移動した。

「わらわは、黒髪の娘だったのじゃ」
ナッシュの軽いウェーブのかかった髪をもてあそびながら、赤く光る目を細める。
夏なので暑いらしく、少しはだけられた服の隙間から、まだ生々しい傷跡が垣間見える。
以前、シエラと共にある吸血鬼に対峙した際、負った傷だ。
「……眷属になれば、瞬時にこんなもの癒えように……」

それでも。
それでも。

「……わらわは、おんしの……」

きらきらと陽光に輝く金髪を見て。
本当に本当に綺麗だと思った。
明るい色を湛えた青い瞳を。
本当に本当に綺麗だと思った。

「――おんしの……おんしを、闇の色に染めとうないんじゃ……」

眷属になれば、共に悠久の時を生きてゆける。
シエラが一言言えば、あるいは何も言わずとも、きっとナッシュは許してくれる。
けれど。

「共に長らく生きるより……」

彼の寿命を自分の手で狂わせたくなかった。
死す時のあの灰になる姿を見たくなかった。
なによりも。

「……わらわよりずっと……綺麗な色じゃ」

あの煌く太陽の色を、失いたくなかった。
自分を見つめる青い瞳も。
一度犯してしまった過ちを、二度と後悔したくない。
たとえそれが、何時かこの手から零れていく結果につながろうとも。

「人の道を踏み外すのは――わらわだけで十分じゃ……」
この左手に宿る紋章の力にすがって生きるような生き方は。
彼にはふさわしくない。

「すまんの」

ぽつり呟いて、シエラはナッシュから離れると窓を開け放つ。
吹き込んだ夜風の中、ショールを羽織った彼女は縁に足をかける。

「おんしは――もう紋章なんぞに関わらぬ生を営んだ方がよいと思うぞえ……」
薄く笑って、身を躍らせた。





ササライは目の前の男を呆れた顔で見た。
「君、休暇の意味をわかってるのかい?」
「わかってます」
「最近労災とかうるさいから、強制的に休暇取れって言ってるんだけどね」
「断ります」

先程から態度を変えない部下に、溜息を吐いた。
「私も部下一人過労死させるほど暇じゃない」
「これくらいで死にゃしません、とっとと次の任務をください」

あのね、ナッシュ。
額に手を当ててササライは聞き分けのない子供に言い聞かせるように、繰り返す。

「君はこの間の件でも働きすぎ。成果は出てないけど。仕事したって給料が上がるわけでもないし」
「……分かっています」
「……ならトランへ向かってくれ、四年前の解放戦争の時に行方不明になっている紋章がある」
「はい」
仕事を与えるとようやく去っていった彼に、ササライはもう一度深く溜息を吐いた。





―――関わるなって言ったから。
―――俺は関わり続ける。
―――いつか彼女に会えるその日まで。