<蒼き菫>





俺の名前はナッシュ=ラトキエ。
苗字はあるが元はともかく、今の俺の身分は全くたいそうなものではない、という事にしておいてもらう。
俺の職業は……まあかっこよく言うとスパイ、怪しく言うと諜報員。
ハルモニアの上層部から命令を受けて大陸各地を飛び回り、真の紋章に関する情報を集め、できることならば持ち帰る、と。
持ち帰れたことはないけどな。他にもそんな話は聞かないし。
だいたい、一個人がふらふらとうろついていて手に入るものでもない気がするんだが、まあこれで食っているわけだから、文句は言うまい。
ちなみに昨日まで俺がいたのはハイランドと都市同盟の間で、これより南に抜けて都市同盟に入る、予定だったんだが、思いの他足止めを食ってしまい、いまだ国境付近にいるわけだ。
さあて、そろそろ日が落ちるが、今夜の宿を探すか強行突破で野宿にするか……馬鹿らしい、急ぐ必要性なんてないな、宿を探そう。

そう思って俺が表通りの方に向かおうとした時、門へ向かう道を、俺の反対方向へ誰かが歩いて行った。
ふわり、と俺の肩の位置で何かがたなびく。
それが稀に見る色の髪だと気付いて、俺は何気なしに振り返った。
もう日も暮れ、空が紅く染まるこの時間。
一人の少女が、薄青のショールをたなびかせ、軽快な足取りで外へと向かっていた。

……昔のことだが、誰かに言われた。
俺はお人好しなんだそうだ。
ついでに運も悪いらしい。
だから誰かを助けようとしても、どうしようもない泥沼に陥るのが関の山、身の程をわきまえて行動するべし、だとか。
だが、お人好しというのは直しようがないからお人好しなわけで、この時代好き好んでお人好しになる阿呆はいないだろう。

というわけで、今俺の視界の中心には一人の少女。
夜が更けると昼は森の奥に引っ込んでいるモンスターが表に出てくる。だから少女の一人旅は危ない。
……と思って付いてきてしまったんだが、これじゃあどう見ても俺が変質者で危険人物じゃないか!?
だいたい、のこのこ一人で外に行くんだからほっとけばいいんだろうに……馬鹿か俺は?
そしてあの少女は何をやっているんだろうか、こんな暗闇でも立ち止まる事なくすいすいと木の間を縫って歩いて行く。
お、立ち止まった。

「あの」
げっ。
「あの――何か御用ですか?」
そう言って少女が振り返った。
歳の頃は十七、八。あどけなさが消えていない。
明かりはないが僅かに差し込んだ月光に照らされて、端整な面差しが見えた。
「い、いや――一人で出て行くのが見えて、危ないなーと」
冷や汗をかきながら弁解したが……なんか「俺は怪しいです」と宣言してないかこれは?
「まあ、そうなのですか、ありがとうございます、お優しいのね」
微笑んだ少女は、俺を手招きする。
「わざわざ気を遣わせてすいません」
「いや……しかしこんな時間に外に出るなんて、なにか事情でも?」
夜の方が、気分がいいものですから。
そう答えて少女は笑う。
……気分て、そんな、悠長な。
「モンスターとか危ないぞ」
俺の忠告に答えはなく、ただ彼女は微笑んだ。
「ところで、貴方のお名前は?」
「あ、ああ、悪い、俺はナッシュ」
「そうですか」
ふわりとショールを靡かせながら、少女は俺に背を向ける、っておい!
「だから危ないって!」
むしろ俺の名前を聞いておいて、自分は名乗らないのか!
ちょっと、いくらお嬢さんでも、世の中には礼儀っていうものが存在してる事を知っておけってば。

慌てて彼女の後を追おうとした俺は、気配を感じて足を止める。
ほうら、言わんこっちゃない。
「モンスターだ」
「…………」
少女は無言でその場に立ちつくす。
チッ、怖くて足でも竦んだか。
どこかに逃がせるような場所もないし、だいたいこれだけ暗いと逃げるには足場が悪すぎる。
仕方ない、ここは彼女をなんとか庇いながら切り抜けるしかない。
「おい、危ないから下がってろ」
「……はい」
かろうじて返事はできるか。
パニックにならないだけマシだな。
俺は武器を構えて集中した。
前方に気配が二つ。
たいしたモンスターではなさそうだ、問題はないだろう、すぐに終わるはず。
「くっ」
暗がりから飛び出してきたモンスターの爪を弾き、俺は足で一匹の頭を蹴り砕く。
鈍い音が響いて確かな手ごたえも感じた。
残り一匹。
先に仲間がやられたので慎重になっているのか向かってこない、それならば。

――ぐぎゃっ

断末魔を上げて消え去ったモンスターを横目で見ながら、俺は背後の少女を振り返る。
「おい、平気か?」
「血が」
「あ? ああ、ちょっとだ」
どこで切ったんだか分からないが、たぶん最初の攻撃をかわした時だろう。
指の先に滲む血を止めようと、俺は指先を口元へと運ぼうとした。
動かした俺の手首を掴んで、少女が引っ張る。
「っ!? お、おいっ」
妙に冷えた唇が、俺の指先に触れる。
生温かいものが傷口に触れて、血が舐め取られたと……舐め取った!? 
ちょっと待て何やってんだこのお嬢さんは!?

「ちょ、おっ、おいっ!」
「あら、首元にも」
微笑んで少女が俺の首筋に指を伸ばしてくる。
首なんか切ってないはずだぞ!?
なななな何が起こってるんだ!?
焦って後ずさる俺の首の後ろに、何時の間にか、少女の腕が回されている。
これは……これは、ドウイウ ジョウキョウ ダ。
「ほら、ここに」
うっとりとした表情で少女は目を細める。
その目の色が、目の覚めるような赤色である事に、その時俺はやっと気付いた。
銀の髪に赤い目、銀の髪に赤い……何か引っかかる。
いや、それどころじゃない!
むしろ今俺の体に当たっているこのやわらかいものは何ですか? 胸ですか? 胸ですね?
ヤバイ。
これは美味しい状況なのかもしれないが、俺の何かが警告音を発している。
襲われてないか!?

「な、何のまね、だって……っ!」
背後に何か気配が生じた、というかたぶん前から近づいてはいたのだろうが、俺が気付かなかったっていうか、いや普通男としてああいう状況で平然としてるのもどうかと!
「ちっ……雑魚がわらわの邪魔をするでない」
俺の耳元で、ぼそりと低い声が聞こえた。
次の瞬間、俺の顔の真横を黒い何かが掠めていく。
……今のは、見た事、あるぞ。
そうだ、あれだ、「闇の紋章」の魔法じゃないか?
それが、俺の耳元を、ていうか、あれ?

「ふん、わらわを襲うなど千年早いぞえ」
少女は、銀の髪を後ろへはね除けて笑った。
「あ……あの?」
「残念じゃったのう、もう少しでおんしの血を吸えたのに」

血を、
吸う、
だって?

「なんじゃ、へたり込んで。そうか、吸ってほしいのかえ?」
にこりと微笑んだ少女は、その紅い口唇を吊り上げた。
「まだ名乗ってなかったのう、わらわの名はシエラ、おんしの血は美味じゃ」
「は、い?」
血を吸うって事は、血を吸うって事はアレか? もしかしなくても伝承にある吸血鬼というやつか!?
もしかして俺、今、血を……?

思考がフリーズしていた俺に、シエラと名乗る少女は口元を手で隠しながら笑うと、地面に尻をついていた俺の前にしゃがみ込む。
「うむ、わらわの僕にしてやるぞ」
「はいっ!?」
おい、今なんて言ったこの女。
「さて、手始めにわらわの荷物を持てい」
その言葉と同時に、頭の上にどさっと荷物が落ちてきた。
「落とすなよ!」
「やかましいわ、僕の分際で文句を言うな」
俺の渾身の怒りを鼻で笑い飛ばし、シエラはふわりと背を向ける。
「はようせい」
「何勝手に人を荷物持ちにしてるんだよ! 何様だお前は!」
立ち上がった俺が怒鳴ると、シエラは振り向いてにっこりと本日一番の笑顔を見せた。
「やかましいわい」

 ピシャン 

……神様。
俺はなんで、見知らぬ少女に血を吸われそうになり、下僕宣言をされ、荷物持ちを押し付けられ、さらに雷まで落とされなきゃいけないんだ?
なんで今俺は地面の上に突っ伏しているんだ?
俺の頬を流れているこれは悔し涙だが、なんだって二十二にもなって悔し涙を流さないといけないんだ!
「はようせんかっ」
「にっ、二発目は撃つな!」
もう一度喰らったらたぶん俺はこのまま森の中で永眠だ。
慌てて荷物を拾い上げ、俺は先に歩いていくシエラの後を追う。
……耐えろ俺、森を抜けたら逃げるぞ、全力で。

翌日、シエラが吸血鬼の始祖様だとか実年齢は八百いくつだとか、先日の魔法は俺の髪を実は数本巻き込んでいたとか、いろいろな事実が発覚した。
おい、俺の今後はどうなるんだ。

 

 

 

***
「幸福の路」より。
二人の出会いはこんな感じで。