<悪夢>





ただ、逃げる。
後ろから迫ってくる何かに恐怖しながら、ひたすらに足を動かして前へと進む。
周りは闇で、どこに逃げているのかもわからない。
ただ、後ろから粘つくような圧迫感を受けて、ソレに掴まったら終わりだと薄々感じていた。

後ろを振り向いてはならない。
ソレを知覚した瞬間に取り込まれると本能が警告していた。
更に言うならそんな余裕などなかった。
少しでも速く、速く。

ここはどこだ。
果てのない空間を走り続ける。
どれだけ走っても息が切れる事はないが、後ろのソレが追うのをやめるわけではない。
永遠と続くいたちごっこ。
少しずつ精神力だけが磨耗していった。



背後の気配が変わった。
急に圧迫感が強くなり、距離が縮まったのだと気付く。
すでに全力疾走状態だったため、これ以上速くなられたらどうしようもない。

今までは遊びだったっていうのか。
獲物をわざと逃がして、必死に逃げる様を見て楽しむ捕食者。

ちくしょうと舌打ちして、ふと腰にある物に思い当たった。
手に馴染んだ感触。
自分の一番大切なものの名を付けた相棒。
どうして今まで気付かなかったのだと自分に呆れた。
多少なりとも腕に自信はある。

柄に手をかけ、一気に振り向く。
剣を抜きかけた手は途中で止まり、俺はソレを凝視したまま引き攣った声を漏らした。
俺を追いかけてきていたもの。
赤い、赤い、ソレは。









「うわぁぁっ!?」
がばりと身を起こして俺は荒い息を吐いた。
白いシーツ、見慣れた天井。
住み慣れた自分の家の中だと気付くまで結構な時間がかかった。
夢か、と安堵の息を吐く。
最悪な夢だった。
いや、夢でよかった……。

かちゃりとドアが開けられ、五才になる息子がおとうさん、と顔を覗かせた。
「おはよう」
「おはようございます」
自分に似た茶色の髪が窓から注ぐ日光に当たってきらめく。

腐れ縁の相棒共々この村に腰を落ち着けて随分経つ。
互いに所帯を持ち、子供も授かった。
あの頃にはこんな風にまた誰かを愛するなんて想像もしていなかった。
月日の流れは偉大だな、と僅かに苦笑する。

「お父さん、お客さんがきてるの」
「……客?」
こんな朝にか、と僅かに眉を寄せる。
近所に住む腐れ縁のあいつなら分かるが、それならわざわざ客なんて言い方はしない。
「どんな人だ?」
着替えながら尋ねると、えっとねと答えた。
「お兄ちゃんだったよ」
「……へぇ」
誰だろう。
もしかしたら傭兵時代の知己かとも思ったが、それなら皆もういい歳だ。

下への階段を降りながら、俺はふと先ほどの夢を思い出していた。
なぜだろう、引っかかる。
「あ、そうだ」
後ろをついて来ていた息子が付け足した。
「赤い服て、バンダナつけたお兄ちゃんだよ」
あれ、と息子は階段の途中で立ち止まってしまった父親を不思議そうに見た。
すでに、彼に子供の言葉は聞こえていなかった。


フリックの目の前には、夢の中で見た赤い悪魔が。
「やぁフリック」
いい家だねぇと椅子に座ってお茶を頂きながらシグールはにこやかに言った。

 

 




***
フリック四十過ぎで所帯を持ってます。
教えてもないのに訪ねてきてましたとさ。

シリアスだと思った人ごめんなさい。