<思わぬ災い>





雪もちらつく真冬だというのに、結構な数の人がトラン湖を賑わせていた。
湖面は見事に凍っていて、その上を楽しそうに滑るアベックや親子連れ。
水の凍っていない時期は漁場や水遊びの場として使われているトラン湖は、この時期になるとスケートの名所となっていた。

はしゃぎながら駆けて行くセノとシグールを微笑ましく見ながら後を追いかけるように歩くジョウイとテッド。
そこから更に少し遅れてルックとクロスが歩いていた。
風邪を引かないようにと出掛けに巻かれたマフラーを顎の上まで持ち上げて、ルックは寒いと呟く。
暑いのも寒いのも苦手だし嫌いなのだ。
しかしぶつぶつ言いながらもその手にしっかりスケート用の靴を持っているルックを見て、クロスは小さく笑う。
なんだかんだ文句を言ってもこうやって遊ぶのは嫌ではないらしい。

やっぱり遊びたい盛りなのかなあ、と本人が聞いたら即刻否定しそうな事を考えていたら、こほ、と小さく咳が出た。
小さな音でも聞き咎めたらしいルックが不審そうな目つきでクロスを見上げる。
「風邪?」
「かも。今日はあったかくして寝ようかな」
「……帰ったら?」
「大丈夫だってこれくらい」
僕だけ仲間外れはつまんないよと笑って言うと、ルックは返事もなく視線を前に戻した。
これでも心配してくれているのだと分かって嬉しくなる。

それにしても風邪引くのなんて久し振りかもしれないと、クロスは一人ごちた。
群島諸国は一年を通して暖かいのでまず風邪を引く事などなかったし、放浪している間は健康管理第一なので風邪など引いてはいられなかった。
そもそも生活習慣が非常によろしい(老人並)おかげで風邪を引いた経験は百五十年ちょっとを通して片手で足りてしまうのだ。
定住場所を見つけて少し気が緩んだのかもしれないと、嬉しいやら情けないやら。

多少咳が出る程度だし、一晩寝れば治るだろう。
念のためルックとは別の部屋で寝た方がいいかなあ。


呑気な事を考えながら、クロスは靴を履き替えて湖面に足を下ろす。
足の裏から伝わる地面とはまた違う感触が新鮮だ。
「クロスはスケート初めて?」
「うん」
そっちは慣れてそうだねと、悠々と滑ってきたシグールを見上げる。
「そりゃ地元人ですから」
小さい頃から毎年冬はここで滑ってたんだよね。
くるりと器用に一回転してみせてから、はいと手を差し伸べる。
クロスはありがたくそれに捕まり引っ張ってもらって立ち上がった。
慣れないスケート靴に、足元がぐらついて勝手に前へと進んでしまう。

難しそうかも、と思った瞬間、後ろからとても楽しそうな声が聞こえた。
「いってらっしゃーい」
「え、うわっ?!」
笑顔で手を引かれて、そのまま離され、遠心力の要領でクロスはざーっと氷の上を滑っていく。
初心者になんつー手ほどきを。
いや、手ほどきとは言わないか。

持ち前のバランス感覚で他の一般客を避けて滑っていくが、止まり方が分からないのでその内岸にぶつかりそうだ。
「あ、ジョウイいいところに」
「え」
進行方向にセノとジョウイを発見してすれ違う瞬間にがしりとジョウイの腕を掴んだ。
そこを支点として急な方向転換を試み、速度を殺してなんとか転ぶ事なく停止する。
なるほどこうやって止まるのか。
ついでに停止の仕方もマスターするクロス。
横でぐしゃ、と音がしたが、何があったかは確認しなかった。


ざっ、と氷を切る音を立てて、滑ってきたシグールも止まる。
「シグール、何てことすんの」
「いやー初心者なのに上手いねぇ」
ぱちぱちと手を叩いて、悪びれた風もなく笑う。
まあ、確かに今のおかげでバランスの取り方諸々を一度に体で覚えられた気もするが、荒っぽいにも程がある。
向こうの方では同じく初心者らしいルックがテッドに大人しく教えられていた。
クロスに対する行動を見て、シグールよりかは余程増しだと悟ったらしい。





半日遊んで夕暮れ時。
太陽が沈むと共に寒さも増してきて、吐く息の白さが増してきたのでそろそろ帰ろうかと靴を変えて岸に上がった。
他の人達も同じことを考えるらしく一気に人口が減り、湖の上にはほとんど人は残っていない。

何気なく滑っている人達を見ていたクロスは、湖の上で滑る子供の足元で影が動いたのを見た。
次の瞬間、ぴしりと大きく湖面に罅が入る。
「――――!!」
罅は瞬く間に広がり、ばりばりと大きな音と共に氷は砕け。
子供が真冬の湖に投げ出された。

夕暮れの空気を悲鳴が劈く。
誰よりも早く事態に気付いていたクロスは、砕けた場所の近くまで一気に走ると、上着を脱いで水の中に飛び込んだ。
凍る直前の水は冷たく、体中の血液が一気に冷える。
悲鳴を上げる心臓を叱咤して、クロスは水の中を漂う子供の体を抱え上げた。

水面に顔を出すと、子供はすでに気を失ってぐったりとしていた。
暴れられるよりも気絶していてくれた方が助ける側としては楽だが、同時に不安でもある。
いきなり冷たい水の中に放り込まれたショックで心臓が止まる可能性だってあるのだ。
早く引き上げようと視線を巡らすと、近くにロープの端が投げられた。
「大丈夫か!」
氷が丈夫な所にいるテッドが叫ぶ。
「うん」
クロスはロープを掴むと、子供を庇うように割れた氷の中を泳いでいく。

水に浮く氷の山を掻き分けて岸辺に近づき、伸ばされた腕に子供を渡した。
子供はそのまま親らしき男性に渡され、岸に連れて行かれる。
向こうでは火の紋章で用意されたらしい大きめの焚き火が燃えていた。
「ありがとうございます、ありがとう……」
母親が涙目でお礼を言ってくる。
それに微笑み返してクロスも早く上がろうと氷に手をかける。
水を吸った服は重いし、冷たさで体の動きも鈍くなってきていた。

その時背後で大きな水飛沫の上がる音がして、背中から波を受けてたクロスは氷から手が離れる。
できた水流に足を取られ、沈み際に浮かんでいた氷の塊に頭を打ちつけた。
「クロスッ!!」
水に僅かに赤が混じったのを見て、ルックが悲鳴染みた声を上げる。
「ジョウイ、お前火炎つけてるな?!」
「ああ」
「アレ目掛けてぶっ放せ!」
言うが早いか、テッドも上着を脱いで飛び込む。

湖から出てきたのは三メートル程ある蛸だった。
なんでこんなところに蛸、というツッコミができるものはこの場にはいない。

ジョウイが踊る火炎を蛸に向かって発動させ、その余熱で周りの氷が溶けていく。
テッドが沈みかけたクロスをひっ捕まえて岸に上がり、それを襲おうとした蛸の足は、シグールが投げつけたスケート用の靴で阻まれた。

頭に衝撃を喰らって沈んだものの意識は失っていなかったらしく、引き上げられたクロスはごほごほと咳き込む。
「――怒りの一撃っ!!」
シグールが放った雷撃は標的を貫き、蛸は派手な音を立てて湖へと消えていった。










談話室と化している部屋に戻ったテッドは、溜息を吐いて首を横に振る。
「ありゃしばらく動かないな」
テッドの言葉にそっか、とシグールはソファに沈み込む。
セノとジョウイの表情も暗い。

あれから崩れるように意識を失ったクロスを連れてテレポートで即行塔に戻り、数時間。
クロスは以前意識を失ったままで、ルックはその傍らに黙って座っている。
風邪気味だった上に真冬の湖に飛び込んで、しかも割れた氷で切ったのは頭だけでなく――おそらく子供を庇って泳いでいた時に氷で切った――傷からは、思った以上に出血していた。
さすがのクロスもこれでは無事では済まない。
「……僕の紋章じゃ怪我しか治せないから……」
「セノは自分ができる精一杯をやったんだから気に病まなくていいんだよ」
でも、と泣きそうになるセノをジョウイが慰める。

盾の紋章で傷は癒えたが、夜になって出てきた高熱を取り除く事はできない。
一時期かなり危ないところにまで行ったのだが、今はなんとか小康状態にまで落ち着いた。

それよりも、と椅子に腰かけながらテッドが呟く。
「ルックが思いつめてそうで怖いけどな」
「……一言も喋ってないよね」
クロスが寝込んでから、無言で、無表情で、ひたすらクロスの傍についている。
ただその顔色で心中を読み取る事はでき、それが更にいたたまれなかった。





右手が温かい。
意識が其処を中心にして、ゆっくりと浮上してくる。

クロスはゆっくりと瞼を持ち上げて、ここはどこだろうとぼんやり考える。
記憶がはっきりしない。
たしか皆でスケートに行って、その帰りに子供が湖に落ちて、それから。
「クロス」
名前を呼ばれて思考を中断された。
頭を傾けようとすると酷く痛んで、仕方なく目線だけを横に向ける。

ベッド脇には自分の恋人が座っていて、クロスは微笑んだ。
「…………」
無言で自分を見つめるルックの顔色は酷く悪い。
それでも強い目で睨んでくる彼が怒っているのは明白で。
「ルッ……ク?」
どうしたのさ、と続けようとして、咳き込む。
意識がはっきりしてくると同時に、体の節々が痛みを訴えている事に気付いた。

自分は子供を助けるために湖に飛び込んで、後ろに何かが現れて波に足を取られて沈んで引き上げられて。
そこからの記憶がないので、おそらく気を失ったのだろう。


「バッカじゃないの」
ずっと握っていたクロスの右手を握り締めて、ルックは涙声で呟いた。
ぱたぱたとその上に雫が落ちる。
「どうかしたのはあんたの方じゃないか」

一度は死にかけて、なんとか持ち堪えて起きた早々どうかしたの、だなんて、他人中心にしても程がある。
「熱出して死にかけて、こっちがどんだけ心配したとおもっ……」
言い募る声は徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

俯いて小さく震える体を抱きしめたいと思うのに、右手は掴まれているし体は動かないので、クロスは痛む喉を堪えて声を絞り出す。
「ごめん、ね」
「二度とあんな心臓に悪い事はやめてよね」
「うん」
ごめん、ともう一度呟いて、クロスは再び眠りに落ちた。



先程までとは違う穏やかな寝息にルックは肩の力を抜く。
失うかもしれないと思った瞬間、心臓が凍りついた。
もうこんな思いは心底御免だ。


ルックはずっと握っていた手を額につけて、囁くように呟いた。

生きていてくれて、ありがとう。





 





***
クロスに熱を出させるためだけにここまでしました(怪我&真冬にドボン&風邪気味)
ちなみにテッドは落ちたくらいじゃ風邪も引いてくれないようです。