<長老で魔女>
きん、と冷えた朝だった。
やっぱり冬は冷えるなあと思いつつ、隣に寝ているルックを起こさないように寝床から抜け出し、厚めの上着を羽織ってクロスは部屋を出た。
寝起きでまだぽかぽかしているとはいえど、すぐに熱を失いだす指先を握りこんで、足音を殺して階段を下りる。
「久しぶりに大人数だし、朝ご飯どうしよっかなー♪」
寒いが心は温かい。
なにせ養い子のリーヤが友人二名を連れて帰省中だ。
クロスの料理を食べる人数は常の倍になっている。しかも三人とも食べ盛りの男子。大変よろしい。
楽しそうに小声で鼻歌を口ずさみながら、台所のある階に着く。
まだあたりは薄闇に包まれているので、傍にあるランプに手探りで火をつけた。
「眩しい」
ランプでは照らし切れない暗闇から声が聞こえた。
その鈴のような声には覚えがあって、クロスは一瞬目を見開いてから微笑む。
「どうしたんですか、お久しぶりですね」
ランプを上げて闇を照らしてみれば、記憶通りの姿で佇んでいる人物は小さく微笑む。
そして赤い唇を開いて、「近頃は冷える」とだけ言った。
ドサリと床に落ちる衝撃でリーヤは目を覚ました。
いたたた、と立ち上がると、たった今落ちてきたベッドにラウロとトビアスが乗っかって寝ている。
なんでだろうとぼんやり考えている内に、昨日トビアスの部屋に毛布だけ持って押しかけ、ベッドに三人で座って話しこんでいる間に寝た事を思い出した。
一人用のベッドで、しかも大きいものではない。
それなりに成長した男三人が寝ていれば狭いに決まっている。
「さ、さっびー……」
密着して寝ていたのでそこまで感じなかったが、落ちる前に毛布が体に完全にかかっていなかったせいで、手足が冷えている。たぶんベッドから落ちなくても、そのうち寒さで目が覚めたに違いない。
自分の分の毛布を引っ掴んですっぽり体を包み、リーヤは部屋を出た。
「さーっびー」
石造りの床はとてもとても冷えている。
スリッパくらい引っ掛けてこればよかったと後悔しつつ、階段を下りた。
窓から差し込む光の感じからすると、そろそろ朝食の時間だろう。案の定、台所からは紅茶の香りが漂っている。
香りが強くなるにつれ、自然と唇が綻んできた。
この家に帰るのは久しぶりだし、クロスの料理も久しぶりだ。
昔は毎日だった朝の香りも、久しぶりだととても心が弾む。
「クロス、おは……!?」
元気にリビングへ踏み込んだリーヤは、ぴたりと足を止めた。呼吸も止めた。
「おはようリーヤ」
「早いね」
クロスやルックの言葉も耳を通り抜ける。
朝日がさんさんと射し込むリビングの、今年の秋に新調したと昨日ルックが自慢気に語ってくれた白い革張りのソファの上に、人がいた。たおやかに背中を預け、流れる銀糸を気ままに流し、白い白い手はカップを赤い唇へと運んでいる。
「しっ……」
「おや、しばらく見ない間に大きくなったのう、リーヤ」
見た目は美少女中身はオババ(の名言を残したのが誰かリーヤは知らない。
ただ、史上屈指の名言であるとは思う)のシエラ=ミケーネは、朝一番の豪華な笑顔を惜しみなくリーヤにくれた。
「久しぶり。なんでなんで?」
「近頃冷えるからの。クロスのシチューが食べたくなったのよ。忙しい時期にすまなかったな」
「シエラ様ならいつでも歓迎ですよ。リーヤ、ラウロとトビアスは起きた?」
「んー、まだ寝てっかな。起こした方がいい?」
「ラウロとも久しいの。トビアスとは友人か?」
「うん。すっげーいい奴。話しててたのしーぜ」
呼んでくるー、と言い放ってリーヤはパタパタと来た道を戻っていく。
階段を駆け上がろうとした瞬間、目の前に銀色が揺れた。
「おうわっ」
「走るな」
眉を顰めたラウロは、寝巻きのみの薄着のままで寒そうに腕を擦る。
「おはよーラウロ。トビアスは?」
「叩き起こした。すぐに下りてくると……っと、お久しぶりですシエラ嬢」
「うむ、すくすくと良い塩梅に育っているようでなによりじゃ」
「……塩梅」
本来は「塩梅」の広義である「具合」と取るべき言葉なのだろうが、彼女が言うと「味加減」にしか思えない。
よく考えなくてもそっちなんじゃないかと悟り、リーヤとラウロは黙った。
余計な事を言ってシエラの機嫌を損ねるのは愚かだ。
「じゃあトビアスが来るまで朝食の準備をしてようかな」
「手伝うー!」
「ありがとう。それじゃ、リーヤは卵を焼いてくれる? ラウロはサラダを盛りつけて。ルックとシエラ様は紅茶のお代わりいかがですか」
「ほんにおんしは気がきくのう。ルックもできた婿をもらったものじゃ」
「もう否定する気もないけど、やってることを考えるとクロスが嫁だからね」
「と言いつつ一応否定するんだよなー。シエラ様、卵は両面焼きでいーんだっけ」
「よく覚えておるな。両面じゃ」
わかったー、と言って台所に駆け込んでいったリーヤの後を追おうとしたラウロは、ふと足を止めて振り返る。
「なんじゃ」
「いや……勝手な思い込みだが、片面焼きの方が好きそうだなと」
一方的な思い込みをラウロが述べると、シエラはふっと微笑んだ。
「昔は片面焼き派だったがの。生卵は潰さないように運ぶのが精一杯で、鮮度を保ちにくい。運びやすいゆで卵にせず、苦労して運んでわらわの好きな卵焼きにする根性に免じて、両面で我慢してやっておったのじゃ」
「?」
「ふふ、昔の話じゃよ。サラダは多めにな」
「ああ」
首をひねりながらラウロはリーヤを追って台所へ入る。
「今のはどういう意味だったんだ?」
少し声を落として囁きかけてきたラウロに、リーヤはフライパンを熱しながら答えた。
「シエラ様の旦那さんはさー、仕事で旅ばっかだったんだって。しかも大抵野宿」
「なるほど」
その旦那にラウロが会った事がないのも、リーヤが過去形で語っているのも、彼がすでにこの世にいないからだ。
いない人ではあったが、逸話を沢山聞いているリーヤにとっては、会った事がないとは思えないほど親しみの持てる人でもある。
何より「あの」ジョウイが「僕より不幸で不憫で不運な人だ!」と嬉々として語っていたのが印象に残っている。
ジョウイより不幸で不憫で不運な人なんてこの世に存在したんだ。
「そんな人がいたら不運すぎて速攻で寿命が尽きてそうだな」
「意外としぶとくなれるんじゃねーの?」
「人間の限界は果てしないな」
他愛もない会話をしながら、まず自分達の分の卵を焼こうとリーヤは卵を割り出す。
コツリといくつか割りながら、ふと気付いて声をあげた。
「あ、トビアスまだ下りてきてねーじゃん」
「それが?」
「……シエラ様といきなり遭遇したら……まずくね?」
気にしすぎだろう、とラウロが言おうとした瞬間、よく通る涼やかな声が聞こえてきた。
「初めまして、シエラといいます」
顔を見合わせた二人が慌てて台所を飛び出すと、つつましく微笑むシエラ(演技)がいた。
尊大に腰かけていた千歳はどこへやら。つつましくソファの縁に腰かけ、俯き気味に話している。
それに対しているトビアスは、いつもの胡散臭いけど愛想のいい笑顔だった。
「初めまして。トビアスといいます。リーヤの友人です」
「まあ、敬語なんていりませんわ。とてもおいし……素敵な方ですね、トビアスさんって」
「シエラさんはとても可愛らしい方ですね」
無言で紅茶を口に運ぶルックと、呆然と佇むリーヤとラウロを置いて、シエラとトビアスの朗らかな会話は続いていく。
シエラがうっかり不穏な言葉を口走っていたが、トビアスは気にしていないらしい。そこは気にしてくれ。
「あの……トビアス、実はその人せんひゃっ!?」
脳天から爪先に走った電流にリーヤは体を硬直させた。
ほんの微かなものだったが、これって……まさか……。
そう思ってシエラを見ると、ちらりと視線を向けられる。今度は冷や汗が出てきた。
「どうしたリーヤ」
「いや、な、なんでもにゃい……」
満足気に頷いたシエラは、少し体を動かしてトビアスを柔らかく動く腕で誘った。
「トビアスさん、せっかくですし、隣に座ってくださいな」
「あ、じゃあ失礼します」
何の警戒もなしにシエラの隣に座ったトビアスから、ラウロは視線を逸らし、あまつさえ台所へ入ってしまった。
ルックも無音で立ち上がってそそくさとラウロの後に続く。明らかに見捨てモードだ。
最後の頼みの綱であるクロスは野菜を地下へ取りに行っていていないし。
「トビアスさんは目が悪いんですか?」
つつ、とトビアスに体を寄せながらシエラは微笑む。
「近い! 危ないトビアス!」というリーヤの心の声など当然届かず、トビアスは心なしか嬉しそうに眼鏡を押し上げた。
「本を読むのに難儀する程度には悪いですね」
「敬語は本当になくてよろしいのに」
艶やかに微笑みながら、シエラの白い指がつうとトビアスの首をなぞった。
「素敵……」
赤い目をうっとりと細めて呟くと、次の瞬間、シエラの牙がトビアスの首に突きたてられていた。
「…………」
「…………」
なんとか止めようと片手を伸ばしかけたリーヤはそのまま固まり、トビアスは前を見たまま無言で止まる。
「ふう……抵抗なしだと逆に不安になるのだが……」
血を堪能してから口を離したシエラがトビアスの顔を覗き込みながら言うと、トビアスはふっとシエラを見て軽く微笑んだ。
「いや、話に聞いてはいたし。名前を聞いた時点で吸われる覚悟はありましたよ」
「なんと、面白くない」
「俺の血は美味しかったですかね」
「そこそこじゃ。おんしら三人はそれぞれ美味で良いのう……まあわらわの好みはトビアスだが」
「それは光栄です。俺の血でよければ今後もどうぞ」
「素直なところが可愛いのう」
お互い見つめ合ってにこりと微笑んだ二人だったが、トビアスに横からリーヤが抱きついてきたのでシエラはさっとソファから立ち上がった。
倒れこんだ二人を、薄い笑みを浮かべた顔で見下ろす。
「だめ! シエラ様っ、トビアスはダメだかんな!」
「おやおや、リーヤは焼餅かえ」
「トビアスとったら俺もラウロもすっげーすっげー怒るんだかんな!」
ぎゅうぎゅうとトビアスを抱きしめながらリーヤが眦を吊り上げて怒鳴ると、「なにやってるんだ」と呆れた顔でラウロがソファに近づいてきた。
「ラウロ! シエラ様がトビアス気に入っちゃった!」
「大丈夫だ。トビアスは俺達を選んでくれる」
「その自信の出所を知りたいのう」
くすくすと笑ったシエラに、トビアスもからからと笑い始める。
「俺ってばほんと懐かれちまってるなー」
「良きことよ。友人は大切にするのだぞ」
「「はい」」
三人で仲良く返事をして、今度は四人で声をそろえて笑った。
「え? なに? なんかあったの?」
地下室から戻ってきたクロスが、なんでこの四人で笑っているのか分からないと言いたげにきょとんとした顔をしていたのがまた面白かった。