<越えられない線>
リーヤが風邪をひいた。
寒気が緩まり、氷が溶けだし、雪が雨に変わる時期だったから、油断したのか調子に乗ったかのどちらかだろうというのがラウロの見立てだった。
ちなみにリーヤはどちらにも顔を赤くして反論しなかったので、おそらく両方なのだろう。
最初は自業自得のようだから放っておこうと思ったのだが、かなりの高熱が出たため、トビアスとラウロは交互にリーヤの側にいる事にした。試験も終わり休暇中だというのも理由にある。
ラウロは楽しそうに、薬を煎じると材料を買いに出かけていった。
リーヤが嫌そうな顔をしていたので理由を聞いてみると、「へんなもんの実験台にされっからやだ」との答えが返ってきて、どうやら過去に経験があるらしいとひとしきり笑ってからかった。
それが数時間前だ。
頬を膨らませ文句を言っていたリーヤは、今は眠りに入ったはいいが額に汗まで浮かべて魘されていた。
震える手が空に伸ばされる。何かに掴まろうとしているのか、それとも撥ね退けようとしているのかは分からない。
「や……やだっ!」
熱で擦れた声が漏れる。あまりに辛そうで、見ていられなくてトビアスはリーヤの手を掴んだ。
「リーヤ、大丈夫だ」
「うぁあ……ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「リーヤ」
寝汗をびっしょりとかき、震えるリーヤの額にトビアスは手を乗せる。熱い。
熱が上がって悪夢でも見ているのだろうか。
「待ってろ、すぐにラウロが薬持ってきてくれるからな」
先程からずっとこの調子で魘されているリーヤを見守る事しかできない。
その歯痒さにトビアスは眉を顰める。日頃陽気でくるくる動く年下の友人のこんな姿は痛々しくて見ていたくない。
夢の中に一体何があるのだろうか。
「やだ……いやだいやだ、いや、いや、イヤーッ!!」
絶叫したリーヤの身体がびくりと跳ねる。
「リーヤ!?」
ただ事ではない様子にトビアスも珍しく裏返った声をあげた。
握った手は痛い程握り返されている。
ラウロはまだ、戻らない。
「あ……」
乾いた唇から溜息に似た息が漏れる。うっすらと開かれた緑に、トビアスは安堵した。
意識が戻ったのならゆっくりと落ち着かせればいい。
なんにせよ、あれ程リーヤを怯えさせていた悪夢が途切れたのはいい事だろう。
「起きたか。だいじょーぶか?」
力の抜けた手を緩く握って尋ねる。曇りのかかったエメラルドが、トビアスを映した。
「……ぁ」
「水飲むか? 食べ物がいいなら果物が」
「ゃ」
擦れた声が聞き取れず、トビアスは体を近づけた。
握っている手が細かく震え始める。
もう悪夢は終わったはずなのに、リーヤの目はトビアスを映してはいなかった。
「リーヤ?」
「いや……いやだ、来るな、来るなーっ!!」
絶叫したリーヤはトビアスを思いっきり突き飛ばした。
思いもしない攻撃に、トビアスは椅子から転がり落ち、床に尻餅をつく。
「いやだ……いやだ、やだ、やだ」
カタカタと震えながら、リーヤは上半身を起こすと、布団をひっ掴んで壁際に這い寄った。
なんとか衝撃から体を起こしたトビアスは、ベッドの上で縮こまっているリーヤを見上げる。
「寝ぼけてんのか?」
「くるな……来るな、来るなーっ!!」
「リーヤ?」
恐慌状態に近いリーヤの様子に、トビアスは立ちあがって手を伸ばそうとする。
だが、その手はリーヤに思い切り引っ掻かれて落とされた。
「いやだ、やだ、やだ!」
「リ、リーヤ。俺だぞ、トビア」
「くるな!」
「っ」
思い切り。腹の底から。風邪でもともと痛めているのに何度も絶叫したせいでその声は酷く擦れていたけれど。
リーヤは全力でトビアスを拒絶した。
そうされる理由が分からなくて、トビアスはその場に立ち尽くす。
親しくしているとはいえ、付き合いがさほど長い間柄ではない。
だがここまで拒絶されるほど浅い付き合いではないと思っていた。
思っていたのだが。
「どうした」
パタリと扉が開いてラウロが戻ってきた。持ってきた紙袋の中身は薬だろうか。
ただならぬ様子を察したのか、ドアを閉め、入口近くに置いてあったテーブルの上に袋を置くと、ベッドへ近づいてきた。
「なんつーか、リーヤが寝ぼけたってか」
「――ラウロ!!」
ベッドの上で縮こまっていたリーヤが、ばねのように飛び出してラウロに抱きつく。
顔色を変えず彼を受け止めたラウロは、すっぽりと両腕でリーヤの頭を包み込んだ。
「もう大丈夫だ」
「俺……俺、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
「……俺がいるだろう。誰もお前を傷つけたりしない。責めもしない」
やわらかくラウロが説く。その声にリーヤの肩が跳ねる。何度も、跳ねる。
「俺、俺っ」
「お前は悪くない」
頭をゆっくりと撫でているラウロにしがみついているリーヤ。
友人同士にしては奇異な光景だったが、ラウロの対応は慣れたものにも見える。
否、本当に慣れているのだろう。二人の付き合いはトビアスとのものよりもずっと長いし、きっと深い。
「俺はちゃんといるだろう。いつも傍にいただろう」
「うん……」
ラウロの胸に顔を擦りつけたリーヤは、ようやく落ち着いた声を返す。その声は明らかにくぐもっていたが。
「だから安心して寝ろ。いいな」
「うん」
その二人を見ていたトビアスは、一瞬だけ目を閉じて、再び開ける。声はいつもの通りに出た。
「俺、飲み物でも買ってくるな。ジュースとかそういうの、飲んだ方がいいだろ」
「……悪い」
「んーや、しばらくしたら戻るわ」
椅子にひっかけていた外套を肩にかけ、トビアスはゆっくりと足音に気を遣いながら部屋の外に出る。
音を立てないように気を遣いながら扉を閉めて、気を遣いながら階段を下りて。
気を遣いながら、寮を出た。
――何に、気を遣ったのだろうか。
「はぁ」
誰に聞かせたくもない溜息を吐く。
眼鏡を外して、片手でぐいぐいと顔を擦った。眠いのではない。
「知っちゃいたけど、なぁ。……しんどいなぁこれ」
呟いてトビアスは眼鏡を掛け直す。それから思い切り伸びをした。三月も終わりとはいえ、この時間は冷え込む。
夜風が寒い。
リーヤの看病をしている間に陽は落ちていて、この時間に開いている店などほとんどないはずだ。
ジュースを買ってくるなどあそこからいなくなるための言い訳でしかない。そんな事はラウロも分かっているだろう。
「聞いた方が、楽なんだけどなぁ」
目を細めてトビアスは寮を見上げる。
そこに点いている明かりはリーヤの部屋のものではない。彼の部屋は反対側だ。
それでも、トビアスは寮を見上げた。壁を通してリーヤの部屋が見えているかのように。
そして誰にも聞かせる気のないトビアスの独白が、晩冬の夜に、まだまだ厳しい冷気とほんの僅かな春の香りに紛れていく。
「そんなのは俺の、自己満足、だもんなー」
本当は、聞きたい。
リーヤが言葉の端々に滲ませる過去も、ラウロが時折リーヤを見る時に浮かべる不自然な感情も。今日のリーヤの絶叫と、拒絶も。
だが彼らはトビアスに語る事はない。
語りたくないのだろう。自分達から言い出さないのであるならば。
彼らがトビアスに隠す事の内容をトビアスが知るのは容易い。
教えてくれと一言頼めば、二人はきっと口を開くだろう。
それは紛れもないあの二人の真実だ。だがそれはトビアスの望む真実でしかない。
あの二人の望みではない。必ずしも真実を知る事が幸せではなく、全てを包み隠さず語る事が信頼であるとトビアスは思っていない。
何も尋ねないのは、尋ねられたら二人が困るからではない。
きっと二人は話してくれるだろう。そこでごまかすような二人ではない。
だがトビアスはそれを聞いてどうするか。受け止め切れるか。理解できるか。
「聞かねぇ方が、いいんだよな、皆。リーヤも、ラウロも……いや、俺だけかなー」
言い聞かすような口調だったのに、語尾には苦々しい思いを引き摺って、トビアスはようやく歩き出す。
冷えてきた手を外套のポケットの中に突っ込んだ。
最後まで覚悟しきれていないなら、「何も知らない友人」であり続けるのが、己にとって一番だろう。
そう考えて、そこまでしっかり考えて、何も聞かない事にした自分を客観視してしまって、薄く笑みを零した。
「変わってねーな、トビアス=フェイアット」
足元に転がっていた小石を蹴り飛ばす。
「変われねーよ俺は。ずっと、こうかよ」
カラコロと転がった小石は、階段を転がり落ちていく。闇に反響していく音を聞きながら、トビアスはくしゃりと顔を歪めた。
「……ちくしょう」
また、なんもできねーじゃねーか。
呟いて、彼は一人で夜の中に消えていく。
寮に戻るのは、朝市が立った後だろう。
リーヤの熱が、下がった、頃だろう。