<研究者魂>





この世界でいう「魔法」とは、大概が紋章術の事を指す。
そして紋章術は紋章によって起こされる。
世界を形作ったのは「二十七の真の紋章」であり、これらの真の紋章は莫大なる力を秘めているとされる。
常日頃我々が扱う紋章はこれらの真の紋章の「カケラ」であり、真の紋章の持つ力のほんの一部でしかない。

そもそも紋章とはなんであろうか。
それはこの世界の理の一つかもしれない。
一見不可解に見える現象の数々を説明する一つの理論であるとも言える。
現在の紋章学では、真の紋章以外の紋章が、それ自体力を持っているのか真の紋章の影響を僅かに映しているだけなのか判明していない。
だが、真の紋章が実際に存在するか否かに関して論ずる必要はない。すでにその存在が歴史上の……



「うお」
手を止めて呟いたトビアスに、リーヤが振り返る。
「どったー?」
「リーヤ、門の継承戦争って何年だ?」
「太陽暦453年から。レポート?」
「そ。紋章学のレポート」
「よく取るよなー。あの授業、つまんねー上にムズいって有名なのにさー」
「そうでもないぜ」
きっぱりトビアスは言い切ったのだが、ラウロは本から目を上げる事すらなく鋭く言う。
「興味があれば面白いというのは面白いに入らないぞ」
「おもしれーって。紋章の起こす現象を理論付けたり、紋章の定義を考えたり、そういう抽象理論が実用に役立つわけですよ」
「紋章なんてブッぱなせばいーんじゃね?」
「「それはない」」
リーヤの物騒な発言を二人はそろって否定する。
ちぇーと口を尖らせて、リーヤはひょこりと立ち上がると、座っているトビアスの背中から抱きついた。
「トビアスは将来魔法の研究やんのー?」
「まあ、広い括りで言えばそうだな。まだテーマとか全然決めてないけど」
「トビアスなら引く手数多だろ。研究室間で争奪戦になってるらしいし」
「あ、そーいやそーだ。経済学のじーちゃんが言ってた」
「あの爺さんは一度倒れた方が大人しくなりそうだな」
「だよなー。昨日も俺のレポート持ってきてさー、今度はこっちの文献読んでおけとかあっちの論文読んでおけとか。俺将来経済学するつもりねーのに」
「……まだ言い寄られてるのか、あそこの教授に」
あの人も懲りねーなぁと苦笑したトビアスの頬にリーヤは自分の頬をくっつける。
後ろから抱きついているので、完全に彼にのしかかる状態になった。

「トビアスはどの研究すんのー?」
「んー、既存の研究内容はどれも面白いんだけどなあ」
「新しい研究がしたいの? じゃあさあ!」
いきなり目を輝かせてぐいぐい体重を乗せるリーヤに、ラウロが視線を上げて眉を顰める。
「おいリーヤ。あんなの人に見せられるような状況じゃないぞ」
「えー、いーじゃん! どーせ行き詰まってたトコだし、俺トビアスの意見聞きたい!」
ラウロの言葉なんぞ全く意に介さず、リーヤは言うと聞かない。
二人の押し問答にトビアスが笑って、「俺は聞きたいなー」と言った事でリーヤの勝利になった。

リーヤはトビアスから離れると、両腕を開いて楽しそうに話し出す。
「ラウロとちょこちょこやってたんだけどさ、ぜってー理論は間違ってねーのに上手くいかねーの。同じ研究してる人はほとんどいねーみてーだし、だからやりがいがあると思うんだよなー」
「転移術の研究」
ばっさり主要部分を取られて、リーヤがぷくーっとむくれた。
「俺が言いたかったのに!」
地団太を踏む彼はトビアスにもラウロにも無視された。
眼鏡を押し上げて、トビアスは真面目に聞く態度を取る。軽く口許が上がった。
「たしかに以前体験したけどな。理論はできてるのか?」
「まあな。後で見せるが、特に致命的なミスはしていないはずなんだ」
「でも、俺どころかちっさい玉でも羽でもダメなんだぜー。なにが悪ぃのかもうわっかんねー」
「……とりあえず理論を見たいな」
「持ってくるー!」
考え込んで言ったトビアスに、リーヤが上機嫌で部屋を出て行く。

パタパタという足音が完全に聞こえなくなってから、トビアスは少し眉を下げてラウロを見た。
「な、なんだ?」
意味あり気な視線が気になって問うと、トビアスは歯切れ悪くぽつりぽつりと話し出す。
「実はな、転移術の研究は研究者の間では禁忌なんだ」
「え……そうなのか? だが、似たような研究をしている人は」
「それはエネルギーとか音とかだろ。モノ、物質、更に言うなら人の転移は学会で禁止されてんの。お前ら楽しそうだったし、研究真剣にやってたみたいだから言い出しにくかったんだけどさ」
「……なぜ、禁忌なんだ?」
「んー……リーヤが戻ってきたらまとめて話すわ」
「…………」

それきり二人は沈黙する。
ラウロは何が問題なのだろうと考え込み、トビアスは視線を物憂げに窓の外へと向ける。
互いに一言も発する事はなく、静かな空気はリーヤが慌しい足音と共に部屋に駆け込んでくるまで続いた。

「え? なに? なんかあったの?」
二人の間にある微妙な空気にきょとんとしたリーヤだったが、気にしない事にしたのか脇に抱えていた大きな紙の束をドンと机の上に置く。目の前にその紙の束を置かれたトビアスは、ぺらぺらとそれを捲った。
「どーだ? なんか意見あったら教えてくれよな!」
「ん……実験は羽とかでやってるみたいだけど、これは最終的には人の転移なんだよな」
「そりゃそーじゃん。それがしたくてやってんだぜー」
「……そうか」
呟いてトビアスはばさりばさりと紙を全て見終えると、ぽんとその山の上に手を置いた。
「リーヤ」
「全然ダメ?」
「いや……実は、転移術の研究は学会で禁止されてんだ」
リーヤは目をまん丸に見開く。目だけではなく口もぽかんと開いた。
「マジ?」
「ああ。紋章術学会で禁止されているのは三つ。命の創造、大規模の破壊術、そして転移術だ」
「な、なんで転移だめなの!?」
「んー、長い話になるが……聞きたいよな」
「うん」
腕を組んでトビアスは背中を椅子に預ける。立ったままだったリーヤはベッドに腰かけた。
ラウロもようやく落ち着いたのか、真直ぐトビアスを見ている。

「まあ……じゃあ話すか。
まず学会がある前からすでに命の創造は禁忌だった。理由はわかるだろ、人間なんて他の命を気軽に弄べるような偉い身分じゃねーもんな。まあ、実際やって大失敗して大問題になった事例が過去にあるわけなんだが。
金の錬金も同じくだ。これも当たり前だな、そんなことしたら一気にインフレ起こしちまう。貨幣というものが存在して市場というものが存在している以上、そんなことしたらダメって全員わかってたんだよ。ま、実際研究が進んでみると金以外の金属から金を練成するのは不可能ってわかったんで、今は別に規制はねーけどな。貨幣の製造は別の罪になるし。
で、学会ができてから破壊術に制限がかかるようになった。「大規模」ってのは有効範囲がだいたい町ひとつって意味だ。なんで禁止されたかはわかるだろ。こんなもん戦争で使われてみろ、あっという間に国民全員死んじまう。現在学会で許容される破壊術の有効範囲は厳しく限定されてるし、研究者も厳しく監視されてる。まあ国も国でこんなのに謀反起こされたらたまんねーからな、行政からもがっつり監視受けてるわけだ。
で、転移術だ。実はこれは他の二つほど厳しく規制されてるわけでも、確固たる理由があるわけでもねーけどさ。
一瞬で好きなところにいつでも行けるって、便利だよな。すっげー便利だよ。それが一般化されたら。全員が使えるならいーんだぜ。ただ、使える人と使えない人が出たらどうなる? ……すっげー不公平だよな、泥棒なんかもしたい放題だし、運送運搬に関わる仕事をしてる人はめちゃくちゃ沢山いるんだぜ。
研究するってことは、長期的に見たら一般化することなんだよ。大昔は紋章って利き手にしか宿せなかったけど、今は人によっては額にまで宿せるだろ、これも研究の成果なんだ。
けどこれも不公平だよな。そりゃ普通の人は紋章術なんて使わねーけど、兵士になったら嫌ってほど実感するんだろうぜ。同じくらい剣を使えたら、紋章三つ宿せる奴が絶対有利だからな。
転移術の研究だって、やってたらいつか完成しちまうだろ。それを一般化したら大成功だよ、歴史に残るすげーことだよ。だけど……だけど、それで社会にどんだけ影響が出るんだ?
皆が使えるものになるならいーぜ、でも基本が紋章術である以上、きっとそうはならねーんだ。だから、禁止してる。こんなことは思いたくねぇけど、犯罪者が使ったら、国境警備とか意味がなくなっちまうだろ。そんなのは、きっとよくねぇんだよ」

そう結んだトビアスを二人はじっと見つめる。
きっぱりと諦めるには少し長く研究しすぎた。
だが研究を続けるには少し多くを知りすぎてしまった。

「……俺、そんなの、知らなかった」
「しょーがねーよ。たぶん、ルックさんも知らなかったんだと思うぜ。自分自身が転移を使えるんだから、研究したこともねーんだろうけど」
「そんな決まりがあったのか。命と破壊術に関しては知ってたが……」
「転移術に関してはそもそも「そういうものがある」って事実が伏せられてっからな。転移なんて本来夢物語なんだ。だから実現不可能、研究なんてとんでもない、ってのが一般認識なはずだ――で」
言って、トビアスはもう一度紙の束を叩いた。
その手を二人はじっと見る。

捨てろといわれたらどうしよう。これまでの研究を忘れろと言われたら。
きっとそれは正しい事だし、これはトビアスからの優しい忠告なのだろう。けど、だけど。

ほぼ同時に二人は思い出す。
夜中まで理論を語り合った事、何度も実験を重ねた事、ルックやレックナートに頼んで色々試した事。
その研究を諦めろというのは、やはり、辛い。

「これが俺の一応の意見なわけですが」
「や、やめろって言うよな……」
「しょうがないだろう」
しょぼんとしたリーヤに、ラウロも暗い声で言う。
「学会の規則に抵触したものを研究しても仕方がない」
「おいおーい、最後まで聞けって」
苦笑して、トビアスはもう一度ぱらぱらと紙の束を捲る。
「俺としてはすげー面白い研究だと思うわけです」
「「え」」
「理論もなかなかイイトコ突いてると思うし、転移とか研究者にとってはまじロマンなわけです」
「「え」」
「というわけで、学会にバレなきゃもとい報告しなきゃ大丈夫だと思うわけ。実際近年の学会の方針としては「どうせできやしないんだから放置でいいんじゃないか」って空気だし。つまり今後何年かの間にこの規則がなくなる可能性もあるわけな」
「「え」」
ラウロがトビアスの顔を窺いながら恐る恐る言う。
「つまり……研究は、してもいいのか」
「俺がしたいです」
「「え」」
ドン、と自分の胸を叩いてトビアスは声高らかに笑った。
「俺の研究テーマこれにこじつけたナニカにするわ! こじつけと辻褄合わせは大得意だから任せろ!」
「「ちょっと待て!!」」
それはどうだろうとかいや落ち着けよとか、今度はリーヤとラウロがトビアスを説得する番になる。
さっきまで彼に研究中止を言い渡されないかと怯えていたのに、今度は二人が思い留まるように説得しているのはなんだか変な光景だ。

「……ははっ」
「ラウロ! 笑ってないでトビアス説得しろよー!」
「ああ、悪い悪い」
くすり、ともう一度小さく笑ったラウロは、トビアスの好きにしていいんじゃないかと言う。
その彼をリーヤとトビアスはそろって見上げてぽかりと口を開いた。
「なんだ」
「いや……ラウロがそんなに笑ってんの珍しーから」
「研究続行できそうで嬉しかったんだよな」
「本気でやんのトビアス!?」
「モチ本気。やると言ったらやる男だって俺は。さーって今から理論練り直すぞ!」
「なんで一番やる気になってんの!? さっきの長い前振りなんだよ! 俺の不安とか心配返せー!」
言いながらトビアスに掴みかかったリーヤと、それを捕まえて笑うトビアスを見ながら、ラウロはまだ笑っていた。





***
トビアスがこのあたりから研究バカになりました。
普通の……普通の子のはずだったんだ……。