<海へ行こう!>





ぺらぺらぺら、と本を見ていたリーヤが、ついと隣で座って読んでいたシグールの袖を引いた。
最近はすっかり文字も覚えてほとんど読むのに支障がなかったから、何か専門誌でも引っこ抜いてきたのかと思った。

けれどリーヤが広げていたのは群島の寓話集だった。
リーヤの口から疑問が漏れる。ある種、今更な疑問だった。

「海ってどんなとこ?」
「海? ……そっか、リーヤは見たことがないんだっけ」
砂漠生まれの人間が海を見た経験などそうそうあるはずもなかった。
シグールだって、そう多く見た覚えはない。
湖でさえ初めて見た時ははしゃいだというのだから、海を見せたらさぞやびっくりするだろう。
「広くてね、向こう側が見えないくらい。で、塩辛い」
「塩入ってんの?」
「うん。あそこまでいくと辛いとしか感じないよ」
きらきらと目を輝かせているリーヤに、シグールは思い付いた。
「行こうか、海」
「ほんとっ?」
「まだ泳ぐ時期には少し早いけど、もっとあったかくなったらクロスにお願いして……」
「呼んだ?」
丁度タイミングよく近くにいたらしいクロスが、名前を聞きつけて声をあげる。
言うなら早目がいいかとシグールは今の話を伝えた。

「リーヤが海を知らないって言うからさ、夏になったら群島に連れてこうかって」
「ああ……群島ならもう泳げると思うよ」
「え」
「あそこは年中泳げるよ、四季がそれほど明確にないから。行きたいなら……ルックが今研究が山場で忙しいから、それがひと段落したら行こうか」
「行くー!」
立ち上がって叫んだリーヤは至極嬉しそうだ。
尋ねたところが実際に見られるというのだから、それも当然の事か。

「実際に見た方が経験になるしね」
「親バカなんだか教育熱心だかわかりにくいコメントだよね」
「シグール達はどうする?」
「うーん」
「え、行かねーの?」
リーヤの中ではシグールが行くことはすでに確定事項だったらしい。
もともと行こうかと言い出したのはシグールだったからそう思うのも仕方がない。
リーヤの視線を一心に受けて、シグールは頭の中の予定帳をめくる。

「来週ちょっと大きな取引があるんだよね……その後になってもいいかな」
「どうせなら、セノ達の予定も合わせて一緒に行く?」
「急に休暇取れないでしょ彼ら。それだと随分先になるんじゃない? リーヤ、待てる?」 
首を傾げるシグールに、大丈夫だよとクロスが笑う。
「皆と一緒ならそっちのがいい」
迷う事なくはっきり言ったリーヤに、クロスが笑みを深める。まったくいい教育がしてある。
「よっし、それでこそ男だ!」
「へへっ」
シグールがわしわしと撫でると、嬉しそうにリーヤが顔をくしゃくしゃにする。
すっかり兄弟のようになっている二人に、妬けるなぁとクロスが小さく苦笑した。

輝く太陽、白い雲、青い海、煌く砂浜。
本で読むだけでは分からない光景に、リーヤは感動で声もないようだった。
「海なんて久しぶりですー」
「日の光が眩しいよ……」
「灰になりそうな事言ってんじゃないよ」
「徹夜明けですからー」
その後ろで久々に六人集合した彼らがぼそぼそと会話を交わす。

なんだかんだで、リーヤとシグールが話した日から十日後に海行きは決行された。
そのために一番苦労したのが誰かは言うまでもない。
シグールはともかく王と王佐なんてやっている二人が、最初から休みでもなかった日をいきなりどうにかできるわけもなかったのだが。
「ジョウイ、無理した?」
「そんなことないよ」
リーヤの言葉にはしゃきっと返して、ジョウイはそそくさと日陰に逃げ込んだ。
すでにそこに陣取っていたルックにこそりと呟く。
「……普段から手伝ってくれると嬉しいんだけどね」
「自分の仕事だろ。甘ったれるな」
「デスヨネー」
リーヤ絡みだととたんに甘くなるんだから、とぶつぶつとジョウイは不満を吐き出す。

実際ルックとクロスが手伝ってくれたから、今回の海水浴がこの日程で決行できたのだ。
最初はセノだけ行って自分は残ろうと思っていたジョウイだったが、全員じゃなきゃだめだとリーヤが言ったらしく、クロスとルックが自主的に手伝いにきた。
この二人が無償で手伝ってくれる事などままある事ではない。

これも全ては可愛い養い子の笑顔のためか。
彼らの優しさは友情ではなく子供への愛情で動くらしかった。

群島のどこに位置するのか分からない島は、貸し切り状態だった。
砂浜をかさかさとカニが横走りしている。少し横の方には岩場もある。
「すっげー!」
ひとしきり感動を終えると、ばたばたとリーヤは海に向かって走っていった。
その姿を見ながら六人も笑う。

「僕も初めて海を見た時はびっくりしたなぁ」
「シグールは内陸だもんね」
「クロスみたいに生まれたら周りが海ってわけじゃないからね。はしゃいで波に足を取られて転んだっけな」
「あんな風にか?」
テッドが指差す先には、リーヤが波に足を取られてすっ転んでいる姿があった。
「リーヤ!」
「…………」
「タオルタオル」
クロスがリーヤに駆け寄って、タオルを持ったセノが後に続く。
「……子供ってみんなやる事一緒かよ」
「若いっていいよねー」
「若いで済ますか……」
転んでずぶ濡れになったもののリーヤに怪我はないようだ。
舌を出して何やら言っているから、海水が口にでも入ったのだろう。
「んじゃ僕らも行くから。ルック、荷物番よろしく」
日陰でから動く気配のないルックに言うと、小さく頷かれる。
その隣に立ったままのジョウイの肩を掴むと、ジョウイが頬を引き攣らせた。
「……僕は、午前中はさすがに寝かせ」
「わかってるって。ゆっくり眠らせてあげるから」
その笑顔が何よりも怖いんだとジョウイの悲鳴は声にならなかった。










足元に打ち寄せる波は、足の周りの砂をかき集めてさらっていく。
波が寄せるごとに足が少しずつ砂に埋まっていく感触と、水の冷たさにぞくぞくと体を震わせるリーヤは楽しそうだ。
一度頭から濡れるという経験をして、海が塩辛いものだと身を持って体験したリーヤは慎重だった。
無鉄砲に深いところに行って波に攫われる事がないのでそれは大変ありがたい。
「どう? 少しは慣れた?」
「湖と全然ちがうんだなー」
「少し泳いでみようか」
「…………」
「大丈夫、海は湖よりも浮きやすいから。僕につかまってれば大丈夫だよ」
まだトランでは泳げる季節ではなかったので、これがリーヤの水泳初体験だ。
「よっしゃーい!」
「道連れにするなぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
岩の方で声がすると思ったら、少し出っ張った岩からシグールがテッドを連れて飛び込んでいた。
普段こういう事の生贄になるのはジョウイなのにと思って後ろを振り返ると、ジョウイは首から下を砂に埋めた状態で放置されていた。
「…………」
いつの間に。疲れているジョウイにも、彼(ら)は容赦がないようだった。
視線が合う前にクロスは視線を逸らした。
「じゃ、まずはバタ足の練習からね」
リーヤの両手を引いて水に入る。クロスの腰あたりまでの水深のところに行くと、リーヤ肩くらいまでが浸かるようになる。
「足の付け根から左右交互に動かすんだよ」
「ぜってー手、離さないでよ?」
「わかってるよ」
さすがにここでそんな悪ふざけはしない。
「右、左……もっと速く動かさないと、進む前に沈んじゃうよ」
バタバタと不恰好なバタ足をするリーヤを応援しながら、それでも昼までの時間に、リーヤは一人でなんとか泳げる形を取れるようになった。

「スイカ割りやろー」
昼食の準備をしているクロス達を尻目にシグールが声高に主張した。
持ってきたらしい丸々としたスイカをおいて、リーヤの手に棍を握らせる。
「シグール、そんなの持ってきてたの?」
「デザートにいいかなって」
「よくこの季節外れの時期に手に入ったね」
「僕を誰だと思ってるのさ」
 胸を張って言うシグールに、リーヤがくりっとした目を向ける。
「スイカ割りってなに?」
「ただスイカ割るだけだよ。ただし、目隠ししてね」
「それじゃなんも見えねーじゃん」
「周りの人の声を頼りに歩いてってスイカを割るんだよ。うまく割れれば成功ってわけ」
「本当は木の棒使うんだけどな。いいのが見つからなかったから、棍で代用ってわけだ」
へぇ、とリーヤは渡された棍を両手で持ち上げてしげしげと眺める。
シグールが普段使っている棍は見かけよりもずっと重くてしっかりしている。

「じゃあ目隠しするぞ」
リーヤの目に布を巻いて、方向がわからなくなるようにニ、三回体を回転させてからテッドが離れる。
「リーヤ、左向いて」
「ひだり……」
「そうそう。そのまま真っ直ぐ進んで……もうちょっと前かな」
シグールの誘導に従ってリーヤはゆっくり進んでいく。シグール以外の声は聞こえない。
「あと三歩進んで……ストップ!」
ここか、とリーヤは両手で持った棍を握り直した。真っ二つに割れたスイカをイメージしながら、体の中心目掛けて棍を思い切り振り下ろした。
「ぎゃあああああああああああ!!」
大きな叫び声に狙いが逸れる。ざしゅ、と砂にめり込む感触がして、リーヤは外したのだと分かった。
「ちょ、洒落になんないって!!」
ジョウイの声が凄く近くに聞こえる。
目隠しをずらすと、目の前にスイカではなくてジョウイの首があった。
棍はジョウイの顔の右横すれすれのところに埋まっている。

「……あれ?」
「残念、はずれ〜」
「当たったら死んでるわ!」
「スイカは?」
「……ここでそれを聞くのかリーヤ。スイカならリーヤの反対側だよ」
やや青褪めた顔でジョウイが教えてくれた。
振り向けば、笑っているシグールの隣にスイカは鎮座していた。
「全然ちげーじゃん」
「スイカ割りならぬジョウイ割り?」
「殺す気か!」
「子供の力じゃちょっと脳震盪起こすくらいだよ」
「違う……子供の出せる威力じゃなかったって……」
「最近鍛錬で武器使い出したからかねぇ」
「え、もうそんな事やってるのか」
「とりあえず色々試してみようって話になってさ。剣と棍はやったよな」
「次は弓やってみようって言われたー」
「しばらく会ってない間にそこまで進んでたのか……って感心してる場合じゃないんだよ!」
助けろよと叫ぶジョウイの声に重なるように昼食の準備が整ったと声がかかり、リーヤとテッドは顔を見合わせるとジョウイを掘り出す作業にかかった。


スイカはその後普通に包丁で切られてデザートとしておいしくいただきました。