<世の中の不思議>
リーヤがクロスとルックという不思議な二人組に引き取られてから三ヶ月近くが経つ。
当初は軽く掴んだだけで折れそうだった手足にも少し肉が付き、血色もよくなって、まだ細くはあるがそれなりに普通の子供に見えるようになった。
シグールとテッドに初対面で散々笑われた(実際に笑っていたのはシグールだけだったが)髪も少し伸びて、今は耳の下あたりまでになり、テッドジュニアは脱出できた。
リーヤは床に直に座り込み、手に取った一冊の本のページをぱらぱらと捲る。
ルックに文字を教えてもらうようになってから一ヶ月。リーヤは乾いた土が水を吸収するかのように文字を覚え、今では簡単な本なら一人でも読めるようになった。
しかし、普段ならば本を読んでいる間は楽しくて仕方がないといった顔が、今日に限っては不機嫌そのものだった。
今日は久々にクロスが町に連れて行ってくれるというから楽しみにしていたのに、急な雨によって延期されてしまったのだ。
今日開催されるはずだった市に一緒に行こうとクロスと約束していたのに、朝目覚めてみると窓の外は大降りだった。
この雨では市も立たないし、出かけるのは次の機会にしようと言われたリーヤは臍を曲げてこの部屋に閉じこもったのだ。
クロスやルックが悪いのではない。天候とて悪くはない。
雨が降らなければ作物が育たない事はリーヤも理解しているし、いかに雨が大切なものなのかも分かっている。
しかし、心は頭の理解に追いつかない。
追いつかないから、閉じこもるといった子供っぽい手段を取ったのだ。
ぱららら、とページを捲る。
適当に閉じこもったこの部屋にある本はどれも難しいものばかりで、リーヤにはまだ読む事ができなかった。
だからといってすぐに部屋を出て行くのは癪だったので、挿絵を見たり、なんとか読める部分から全体を推測して読むという荒業を使いながら、時間を過ごしていた。
ふと、目に留まった見慣れた単語にリーヤはページを捲る手を止める。
その人物の名はリーヤもよく知っていた。なにしろ自分が一番好きな本に出てくるからだ。
それは、よく遊びにくるクロス達の友人と同じ名前でもあった。
リーヤが伝記を好きだと知ったクロスが、塔にはない子供向けの伝記を買ってきてくれて、何度も読んだ。
トラン共和国を建てた英雄の名前だ。
最初はシグールと同じ名前だから興味を持ったのだが、読んでいくうちにリーヤはその英雄にどんどん惹かれていった。
びっしりと文字が詰められたページを捲ると、やがて小さな挿絵を見つけた。リーヤが読んだ本のものより実写的だが、似ている部分もある。
この分厚い本も、あの英雄の伝記なのだろうか。
自分が読んだ本よりずっと厚く、字もずっと小さい。
読みたいな、と思うが、ところどころしか文字が拾えない。
もっと文字を覚えたら読めるようになるのだろうか。
少しの不満と学習意欲に燃えるリーヤは、ひょいと伸びてきた手に本を取り上げられた。
「なに読んでるの?」
降ってきた声にリーヤは顔を上げて驚く。シグールがいつの間にかそこにいた。
ドアを開ける音はしなかったし、そもそも部屋には鍵が内側からかけてあったはずなのだ。
「……いつから?」
「うん、ついさっきね。リーヤが拗ねてるっていうからからか……様子を見に」
「どーやって入ったんだ?」
「まあ、ちょちょいっと」
指で何かを回す仕草をしてシグールはリーヤの手から本を取り上げる。
パラパラと数ページ捲って、何の本であるか理解したようだった。
「リーヤ、これ読めるの?」
「す、少しは読めるやいっ」
「まだ習いだして一ヶ月でしょ? 白紙からやりだしたにしては早いじゃない」
馬鹿にしたような言葉に詰まりながらも抗議したリーヤだったが、あっさりと褒められて毒気を抜かれた。
相変わらずシグールは人をからかう割に、怒りを持続させない。
「お前なー……リーヤで遊ぶなって何度言ったらわかるんだ。クロスとルックに睨まれるぞ」
「子供は遊んでなんぼじゃない?」
「子供「で」遊ぶな。子供「と」遊べ」
「…………」
またもやいきなり現れたテッドは、溜息を吐いてシグールの手から本を抜き取ってぺしりと頭をはたいた。
そして、呆然としているリーヤの手に本を戻す。
「テッド痛い」
「自業自得だ」
「テッドまで……いつきたんだよ」
「ついさっきな」
「リーヤ、トランの伝記読んでたんだよ」
「へえ、文字もう読めるのか」
手放しで褒められて頬を緩める。
「伝記好きなのか?」
「おうっ。俺、トランが一番好きだ」
「……へぇ」
「かっけーし! シグール、英雄と同じ名前なんだな」
「リーヤがトランの伝記を好きな理由ってそれか?」
「それもあるー」
「そっか……」
どこか照れたように頬を掻くシグールに、リーヤは小首を傾げる。
どうしてシグールが照れるのかを問う前に、シグールが口を開いた。
「僕は群島のが好きなんだよね」
「群島?」
「あれ……読んだ事ないの?」
「ない。あんのか、そんな伝記」
リーヤの言葉に、シグールとテッドは一瞬視線を交わした。
シグールはなにやら黒い笑みを浮かべている。
テッドはやれやれとばかりに肩を竦めていた。
「じゃあ、後で読んであげる」
「えー、今からがいい!」
「トランにまつわるとっておきの話、知りたくない?」
「え!?」
「僕、トランに詳しいんだよね〜。本にも載ってない、とっておきの話をしてあげよう。青いのとか熊とか青二才とか青二才とかのをさ」
「聞きたいー!」
教えて教えて、とシグールにねだるリーヤの機嫌はすっかり直ったらしかった。
気分がころころ変わるのも子供の特徴だよなとテッドは苦笑して、つい、とシグールの腕を突いた。
「……ところでシグール、フリックに恨みでもあるのか」
「事実として、あいつが一番笑える話が多い」
「……そうか」
目をぱちくりさせているリーヤを見て、テッドは苦笑の色を一層濃くした。
たぶんリーヤはまだ、目の前にいる人物が自分の憧れる英雄とただの同名であるとしか思っていないのだろう。
クロスとルックが群島の伝記を見せていないのは、さすがに群島の伝記を読んだら偶然にしては出来すぎな符号に気付くだろうと思ったからか。あるいは単に恥ずかしくて嫌だっただけか。おそらく両方か。
後で絶対揉めるんだろうなぁ。
それが分かっていても止めないのは、テッドもこの後の騒動が楽しみだったからだった。
ばたばたと近づいている足音を耳にして、クロスは口元に笑みを浮かべる。
どうやらリーヤの機嫌はすっかり良くなったらしい。
町に行くのを随分楽しみにしていたから、申し訳ないと思っていたのだ。
クロスが宥めに行く前にシグールとテッドが来てしまったのだが、どうやらあの二人に任せて正解だったらしい。
「クロス!」
目を輝かせて自分の服を引っ張ってくるリーヤに、机を拭いていた手を止めた。
「シグールって、トランにすっげぇ詳しいんだな!」
「話をしてもらったんだ?」
「うん!」
「よかったね」
興奮して言うリーヤに、ああなるほどと納得する。
リーヤはトランの伝記が一番好きだから、シグールの話はきっと楽しいものだったろう。
丁度部屋に戻ってきたシグールと視線がかち合って、目だけで礼を言う。
応えるように笑ったその笑みに、なぜか違和感を覚えた。
しかし深く考える前に、リーヤの言葉に意識がいってしまう。
「伝記にのってないことたくさん知ってた! やっぱ英雄と同じ名前だとくわしくなんのかなー」
無邪気な言葉に笑うしかない。
シグールは伝記の本人だから当時の事を知っていて当然なのだが、その事に気付いていないリーヤからしてみれば不思議な事なのだろう。
名前の一致を不審に思わないのは、先日セノとジョウイに引き合わせた時に、英雄と同じ名前はよくあるものだと言ったからかもしれない。
リーヤははしゃいだ声で更に続ける。
「――で、シグールが本買ってくれるって!」
「へぇ、どんな?」
「群島とグラスランドってところの伝記!!」
ぴしり、とクロスの笑みが凍った。
塔の本の中からリーヤ向けの本を探す時も、新しく買う時も、その地方の伝記はあえて避けてきたというのに。
「……リーヤ、誰から聞いたの?」
「シグール」
その言葉にクロスと、本を読みながら耳を傾けていたルックは、ぎっとシグールに視線を向けた。
彼はソファに座って笑っていた。とてもとても楽しそうに。
……さっきの違和感はこれか。
シグールが指を組んだ姿勢でルックに言った。
「そういうことだから、ルック、テレポートして」
「やだ」
「なんでさー」
「買えるかあんなもんっ!!」
ばんっ、と机に拳を叩きつけてルックが叫ぶ。
何が楽しくて恥の固まりを自分で買いに行かなければならないのか。
「いいじゃないルック、テレポートのひとつくらい。可愛い子のためでしょ?」
「誰のせいで嫌がってるかわかってないのかあんたは」
「いいからテレポートしようよ」
ね、と右手をひらひらさせながら言うシグールに、ルックは言葉に詰まった。
「・……テッド」
「俺に頼るな」
「シグールの教育は君だろ」
「俺の手には負えん」
遠くを見ながら言うテッドは先程止めなかった時点で同罪なのだが、これ見よがしに深々と溜息を吐いてみせた。