<はじめての日>
ぽかん、と口を開けて、リーヤは目の前の光景を見つめていた。
この反応が今日一日だけであと何度繰り返されるのか予想もつかない。
「どうしたのリーヤ?」
微笑みながら視線を合わせるために腰をかがめたクロスに声をかけられて、リーヤははっとする。
「リーヤ」はほんの数時間前に自分につけられた名前だ。
まだ耳慣れない言葉は、それでも返事に窮する事もなく己に馴染んだ。
さっきまで、あの乾いた町で、消えゆく町で、死ぬ時までの猶予を数えるしかなかった。
それなのに、たった半日足らずの間にがらりと様相を変えた世界に小さな子供が戸惑うのも無理はなく。
買い物を終えたクロスと合流し、手を引かれて束の間。二度目となる奇妙な浮遊感と共に着いたのは、どこかの部屋の中だった。
「ここが今日から君の家だよ」
手を引いたままのクロスが笑顔で告げた。
室内には綺麗に整えられた家具が置かれ、リーヤが目にした事のない物がそこら中にある。
リーヤの知っている家からはこんな温かな印象は受けなかった。
それが今日から自分の家だと告げられても、実感が沸かない。
クロスが食事の支度をする間に体を洗ってしまおうと、まだ驚きから抜け出せないリーヤはルックにぼろ雑巾のような服を引き剥がされて風呂に放り込まれた。
白いもやの立ち込める石造りの室内には、人が入れてしまうほどの大きさの箱があった。
中には沢山の水が入っている。
そんな大量の水を見たのも初めてで、リーヤは恐る恐る手を伸ばしてそれに触れた。
指先に走る熱さに慌てて手を引き上げる。
思わず上げた引き攣った声に、ルックがドアを開けて顔を覗かせ、訝しげに眉を寄せた。
「どうしたのさ」
「なんだ、これ」
「……ああ」
風呂を見た事がないのか、とリーヤの反応から汲み取ったルックは、軽く頷くと上着を脱いで袖を捲りあげて中へと入ってきた。
両手で持つほどの大きさの器に湯を汲んで、リーヤへと浴びせる。
最初から熱いと分かっていれば、それはどうって事のない温かさだった。
リーヤの体を伝って下に落ちる水は茶色に染まり、砂が床に残る。
「目、瞑ってな。砂が目に入るから」
「ん」
言われた通りにすると、再び湯をかけられた。
何度かそれを繰り返して、落ちる湯が透明になってくると、ルックは湯をかけるのを止める。
石鹸を手に取って、布で包み泡立てる。
目を開けてルックの手元を見ているリーヤが興味深そうに尋ねた。
「なぁ、これなんだ?」
「これが風呂だよ」
「ふろ?」
「体を綺麗にする場所」
「こんなに水使ってだいじょーぶなのか」
「すぐ近くに湖があるからね」
「みずうみ?」
「……水が沢山ある場所だよ」
そこで会話を切り上げ、ルックはリーヤの腕を取って泡のついた布を当てた。
骨の固さがそのまま伝わるほどに細い腕を、できるだけ優しく洗って汚れを落としていく。
匂い立つ石鹸の香りにリーヤが鼻をひくつかせる。
「なんか、変な匂い」
「…………」
「でも、やな匂いじゃねーよ」
「……頭洗うから、また目を瞑ってな」
その言葉に目を閉じると、髪の毛に指が差し入れられる感触がした。
今更ながらに人にこんな風に触れられるのも初めてだと気付いたが、洗われる心地良さにリーヤはされるがままになっていた。
「お湯かけるよ」
やがて声をかけられて、リーヤは固く目を瞑った。ざぶん、と頭から湯がかかった。
風呂から出ると、クロスが用意してくれたらしい服に袖を通した。
白のシャツと黒っぽいズボンというシンプルな服はリーヤには少し大きくて、ルックが袖と裾を折り曲げて長さを調節する。
長い髪は丁寧に水気を拭き取られた後、紐で簡単に結わえられた。
「そろそろ食事の支度ができたかな」
行くよリーヤ、と呼びかけられて、リーヤは慌ててその後を追った。
いくつかの扉を見送りながら、階段をしばらく上って着いたのは、リーヤが最初に見た部屋だった。
壁に埋め込まれた光源には火が灯されていて、窓の外が真っ暗な事に気付いた。
もう夜だというのに、この中はちっとも寒さを感じない。
あの砂漠からはずっと遠い所に連れて来られたのだとようやく頭の中が整理されてきた。
「ああ、さっぱりしたね」
二人に気付いたクロスがにこりと笑いかけ、両手に持っていた皿を部屋で一番大きなテーブルの上に乗せた。
そこにはすでに皿に盛られた料理が並べられている。
ルックはさっさと自分の席に座ると、テーブルの上の物から視線を外せないまま突っ立っているリーヤに言った。
「まさか椅子の座り方も知らないなんて言うんじゃないだろうね」
「そ、それくらい知ってる!」
反論して、近くにあった椅子に座ったリーヤの目の前に、湯気の立つ器が置かれた。
最後にお茶を運んできたクロスは、リーヤの隣に座る。
「いきなりたくさん食べると胃がびっくりするからね」
「病人食みたい」
「味付けはしっかりしてあるから」
呟いたルックにクロスは苦笑で返す。
言葉の内容から、この食事はリーヤのために考えられて作られた料理のようだった。
どうしてそこまでするのだろう、と疑問を口にする事もできず、リーヤは半ば呆然と皿を見つめる。
「いただきます」
「いただきます。……リーヤ?」
匙を取ったクロスが、動かないリーヤに首を傾げる。
ルックはすでに一口目を運んでいた。
声をかけられて我に返ったリーヤは、二人を真似て両手を合わせると、おずおずと匙を手に取った。
ぱくりと料理を口に入れる。
「っ!!」
「リーヤ!?」
「い、たい……」
「ああ、熱かったね」
ひりひりする舌に顔を歪めたリーヤに水の入ったコップが差し出される。
それを一息に呷る様子をクロスは微笑ましそうに見ている。
「冷まして食べないと熱いよ」
「……うん」
今度はきちんと息を吹きかけて口に入れる。さっきは熱くてそれどころではなかったが、料理は美味しかった。
物心ついた時には捨て子だったリーヤがまともな食事にありついた事などほとんどなく、記憶にはっきりと残る近年では、屑野菜すら滅多に口に入るものではなかった。
柔らかな米も野菜も、夢に描いた事すらなかった。
料理だけではない。
風呂も服も、小さな子供の想像の範疇を超えていた。
リーヤは町から出たいと願ったが、その先にこんなものが用意されているとは考えもしていなかった。
考えられもしなかった。
じわりと鼻の奥が熱くなった。
滲む視界にリーヤは口を開いて大きく息を吸う。
雑炊を冷ますふりをして、リーヤは口いっぱいに料理を頬張った。
「まだ沢山あるからね」
隣から優しい声音で言われて、リーヤは返事の代わりに小さく頷く。
目が潤んでいるのは、きっとさっき舌を火傷したからだ。
夕食の片付けをしたクロスが戻ってくると、リーヤがソファの上で舟を漕いでいた。
面白いのでしばらく様子を見ていると、一分もしない内に、こてんと横に倒れて寝息を立て始めてしまった。
「あらら」
「気が抜けたんでしょ」
「みたいだね」
目まぐるしく変わる環境についていけていなかったらしいリーヤだが、どれだけ気を張っていようとも、風呂で温まってお腹が膨れれば眠くなるというものだ。子供であるなら尚更に。
「どこで寝かせるの」
「そんなの僕らの寝室に決まってるじゃない」
「……客室があるでしょ」
「夜中に目を覚ました時に一人じゃ寂しがるよ」
「…………」
否定しなかったルックに笑って、クロスはリーヤをそっと抱きかかえる。
「親子で川の字とか、セラともやった事なかったよねー」
嬉しそうにしているクロスにルックは溜息を吐いて、腕の中のリーヤを覗き込んだ。
「おやすみ、リーヤ」
むにゃ、と寝言で返されて、二人は顔を見合わせて小さく笑った。