守るためなら悪魔にもなる
手を出した己を恨め
さあ謀略の時間だ
<peccatum>
グラスの中の氷の音に、ラウロは目を細めた。
涼やかに耳を打つそれは、この気候には少し外れていたけれど。
「そうか、それならいいんだ」
「ラウロ君、本当にリーヤ君のことを心配してるのね。あたしもがんばらなくちゃ」
「がんばってくれ、あれの世話は疲れる」
「いつかそう言ってみる」
笑った少女に適当な答えを返しておいて、ラウロはそれじゃあと立ち上がる。
「悪いな、グレティア。じゃあまた、放課後に」
「ええ」
はにかむように微笑んで答えた、リーヤの彼女の事は立ち上がったラウロの頭にはもうなかった。
代わりに彼女の恰幅のいい父親の事が浮かんでいる。
リーヤは先週末にグレティアの屋敷へ遊びに行った。
もちろんスフレとラウロも一緒に、だ。
そのとき当然ながら家にいた父親に、グレティアはリーヤが彼氏であると紹介した。
そこに何の違和感もない、確かに二人は付き合ってすでに数週間が過ぎている。
しかし、その後の父親の反応をうかがっていたラウロはかねてよりの懸念が現実であった事を知る。
そしてそれは今日、グレティアと話した事で確実になった。
彼女の父親はリーヤとの一件を歓迎しているという。
ただの、成績が優秀なだけのどこの誰とも知れぬ馬の骨と。
愛娘との交際を、歓迎する。
そんな理由は、一つしかありえない。
そしてその話をするグレティアの言葉から、聞き出した僅かなほころびは。
「……どうしても、泣かせるな」
呟いてラウロは溜息を吐く。
今はすべてラウロの憶測の上のことだが、そのうちに何割かが事実であった場合はリーヤは深く傷つく事になるだろう。
きっとリーヤはすでに気付いているはずだ、グレティアの父はササライの失脚を――もっと言えば抹殺をたくらんでいる事を。
おそらくそれは近日中に決行される事だろう。
リーヤというササライに揺さぶりをかけるのに最適の相手を手に入れた以上、待つ意味はない。
「仕方ない」
遅く動けば負ける。
ラウロの目的は一つではない、だから誰にも遅れを取れない。
すべてに先手を打たなくてはならない。
「スフレ」
恋人になったばかりの女の名を呼ぶ。
笑顔で手を振ってきた彼女の目じりに口付ける。
「動きがあったのか?」
「またぁ、せっかちねぇ」
耳元にささやくと喉の奥で笑われる。
腰に手を回せば、恋人同士の睦事に見える。
国家転覆に近いクーデターについての会話には、どうがんばっても見えるはずがない。
「ねえラウロ。一つ聞いておきたいの」
「なんだ」
「私は利用しているのかしら、それとも利用されてるの?」
「共同戦線を持ちかけたのはスフレだ。お前の利益は出世、俺の利益はリーヤとササライの安全」
ラウロの言葉にスフレは身をよじる。
その手が彼の胸に当てられ押しやられた。
不愉快さを隠さずに言う。
「……利用されている気がするわ」
「そうか」
あえて否定せずにおくと、スフレは冗談よと深刻そうな顔を笑顔に変える。
「それに、こんなにいい男ならだまされても本望ね♪」
軽い調子で言ったスフレの耳にラウロは呟きを落とす。
「進展があったら教えてくれ」
「ラウロの方こそ、ササライ様はどうなの?」
「特に変わりはない。不審者も見ない」
姿を見せればすぐに捕まえられるのに、と嘆息したスフレを離すとラウロは次の目的地へと向かった。
洗ったのはスフレに依頼されていたオネゲル家当主の人脈。
それを終えてもラウロは休む事なく、ほんの一手間かけて、その娘。
当主の人脈などラウロは今更興味など持っていない。
本格的にスフレが証拠を掴めば、人脈を行使する前に一網打尽にされるだろう。
彼の予想の裏付けに必要だったのは、グレティアの方の略歴だった。
引っ掛かりを感じたのはいつだったのか。
本当にただの可愛らしくはにかみやな清楚な少女だったら。
こんな事をする必要は――ない。
さすが名家の息女、幼い頃からの記録が学校の方に残っている。
入学をする際に家庭教師から出された推薦書と共に、幼少のころからの細やかな説明が連ねられていた。
当然のことながら並べられる美辞麗句を一つずつ解体し、ラウロは淡々と読み進めていく。
人は簡単に変わらない。
三つ子の魂百までと言うが、幼少の頃の性質はそれほど簡単に翻されるものではない。
案の定、予定通りといわんばかりにそこに記されたものを見つけてラウロは無言で履歴書を戻した。
そのとき初めて、最悪の事態を考えた。
雲行きが怪しくなってきたと思っていた矢先、スフレが廊下のど真ん中で頬に手を当ててくる。
それが意味することはただ一つであり、ラウロはそれに答えるように軽い口付けの後に女を抱き寄せた。
「決行日、場所、方法、すべて記してサインのされた書類を手に入れたわ」
冷たい快感がこみ上げた。
それは歓びではなく、嘲りに近い。
手にした熱を引き寄せて、すでに効力を持つと十二分に自覚している甘い声で囁いた。
「感謝する」
「ラウロに感謝されるなんてうれしいわ」
腕の中で笑った彼女は、首に腕を回して体を密着させてくる。
「よく盗み出せたな」
「人聞きの悪い。借りただけよ」
くすくすと笑う彼女に、同調するようにラウロも笑った。
それは、合わせただけの笑みであったけど。
スフレから連絡を受けて、ラウロは隣の部屋のリーヤが寝息を立てだすのをじっと息を殺して待っていた。
ササライは今晩帰ってこなかったから、おそらく家に帰る前にすでに作戦決行を知らされたのだろう。
ラウロは寝巻きを脱ぎ捨て、普段の服装を整える。
最後に髪をくくって、窓にくくりつけてあった縄梯子を伝って外に出た。
さらに用意してあった馬を駆って集合場所へと赴く。
「スフレ」
「――ラウロ。来たのね」
「ああ、感謝するよ、手引きしてくれて」
そう言うと「いやぁね」とスフレは笑って、しかしそれは一瞬ですっと厳しい顔になる。
「私達は正面の門から入るわ。門番はもう抱き込んだ、止められる心配はない。アンタは裏門から入ればいいわ。諜報員だといえば疑わないでしょう」
わかった、と返してラウロはその特徴のある色の髪を持ってきた帽子に押し込める。
顔が見えないように目深く被った彼に手を振って、スフレは一足先に屋敷へと乗り込みに行く。
そのすぐ後にラウロは裏門をあっけなくくぐった。
途中ですれ違った女性は、門を抜けようとしてひと悶着を起こしていた。
「どうして通していただけないのですか!」
「どうかされましたか」
その女性が誰か瞬時に悟ったラウロは、勤めて穏やかな口調で話しかける。
彼女は狼狽しすぎてラウロが誰か気付かなかったらしく、必死にまくし立てた。
「お嬢様が、お嬢様が持ってゆけと、旦那様が旦那様が」
彼女は――グレティアの乳母。
「無礼な者どもが入ってきて、旦那様を――そこをグレティア様が見ていらして、この手紙を、届けなくてはっ」
「失礼してもよろしいですか、中身を改めるだけですから」
乳母に拒否させるためにラウロはその手紙を奪い取る。
内容を一瞥し、戻した。
「行かせてあげてください」
「し、しかし」
「かまわないでしょう、私の命令が聞けないのですか?」
門兵――おそらくスフレの上司の部下の誰かであろうが――はラウロの無言の圧に屈した。
逃げるように去っていった乳母をラウロは見送らずに屋敷の中へと入っていく。
父が追い詰められた直後に少女が書いた手紙。
それは助けを求めるものではなかった。
謝罪の言葉でもなかった。
一見そう見える手紙はしかし、少女の本性を知るラウロにとってはすでに唾棄すべき内容でしかない。
怒りに唇を噛み締めて、ラウロは最後の一押しをするために三階へと向かう。
終局へ転がりだした
それる方法も止める方法も
そんなもの最初から用意してやっていない
さあ 崩壊しろ
それが当然の 報いだ
目的の部屋をノックなしで押し開ける。
椅子に座っていた少女が、ゆっくりと振り返った。
「ラウロ、君?」
信じられないと深い色の瞳が見開かれる。
ゆっくりと立ち上がって、震える唇で問う。
「どうして、ここに?」
「スフレの手引きだ」
簡潔に答えたラウロは、自分の感情を正直に目に表す。
グレティアはさぞ戸惑っていることだろう――先日は穏やかに挨拶をしてくれたはずの友人が侮蔑の眼差しで見下ろしているのだから。
「スフレが、どう、して?」
「その前に俺の質問に答えてもらう」
一歩、ラウロは室内に入ると扉を閉めた。
「グレティア、ササライ神官将の暗殺計画を事前から知っていたな?」
「しっ、知らないわ! 知らなかったの、本当よ!」
涙を浮かべた少女にもう一歩ラウロは詰め寄る。
さりげなく彼の隣にあった固い表紙のそれを掴みあげた。
「これが証拠じゃないのか」
「! よ、読んだのね!!」
形相を変えて取り戻そうと走ってきたグレティアを軽くあしらって、ラウロは嘲りの笑みを浮かべる。
「部屋にずっと置いてあったコレを、か? 無理に決まっているだろう」
「だま……したの?」
「だましたのはお前が先だ。お前はササライ暗殺計画にリーヤをお前の父親が利用するつもりだったことを知っていた」
それも、ずいぶんと早い時期から。
リーヤといるときには一切表に出ていなかったが、ラウロがじっくりと話そうとすると彼女の言葉の端々に出てくる「いつか」の表現。
きっぱりと物事を言い切らない彼女が、珍しく断言する表現に違和感を覚えた。
彼女は何かを予定しているのではないか、「いつか」リーヤと今よりずっと近くなる事を。
それとササライ暗殺計画が結びついた瞬間、ラウロは怒りを覚えたのだ。
「お前はリーヤを利用した。自分の執着のために」
いい事を教えてやろう、と言ってラウロは扉に手をかける。
これを言ったら最後、二度と彼女に用はない。
「スフレの身分はハルモニア政府諜報員。じっくりお前に近づいて、今回の件に関する資料を集めた。決定打となったものはすべて、彼女がオネゲル氏の書斎から盗み出したものだ」
分かるか、とラウロは茫然自失のグレティアに容赦のない言葉を叩き込む。
「リーヤをお前に近づけたのは、膠着していた作戦を前に進めさせ尻尾を掴むためだ」
たたきつけるように扉を閉じる。
だからその後の事は見ていない。
だけどラウロは扉から遠くに行く事なく、廊下の奥の喧騒をぼんやりと見ていた。
だから聞こえた。
窓の割れる音が。
そして、何かが潰れるかすかな音も。
***
本編でラウロサイドがほとんどなかったのは彼が初っ端から暗躍していたからです。
彼の独白を書くと話がばれるからです。
こええよ。
peccatum→罪