<The gift from father>





まるで喪にでも服しているような静かなそこを、クロスは無言で通り抜ける。
隣を歩くシグルドが心配そうな顔をしていたが、彼も何も言わない。
皮膚に貼り付きそうなねっとりとした空気、それは中へ向かう度に重くなってゆく。

完全な内側へ入るための最後の扉をくぐると、その重い空気が一気に消え去り、一転してまるで祭りの前のような軽やかなものへと変わる。
それでも、クロスは固い横顔を崩さないまま、ぐるり頭を巡らせた。

「クロス」

落ち着いた色の服をまとった中年女性が廊下の端から歩いてくる。
流れる金髪は昔から変わらず、高い位置で結われていた。
「突然呼んで、ごめんなさいね」
「リノ様の加減は――」
女性は無言で首を振る。浮き足立っているような空気の中、一人静かに佇んでいる。
「フレア様、その――ここは、いったい」
「お父さんの命令でね、「俺が死ぬ時まで辛気臭い気配なんぞ漂わせるな」と――だから、みんな頑張っているの」
シグルドの問いに答えたフレアが、泣きそうな顔を一瞬する。

「クロス、こっちよ」
「俺は、ここで待っています」
「……うん」
頷いたクロスはシグルドと別れてフレアの後を追う。
通された部屋は奥まった場所にある。
外に控えていた侍女が、涙に濡れた顔を伏せるようにして立ち去った。
無言で立ち止まったフレアの視線に促されて、クロスは室内へと入った。

「リノ、様」
「なんてしけた顔してるんだクロス」
ベッドの上に横たわったその皺が深く刻まれた顔に、いつもの笑みを浮かべて彼は言う。
「全く、どいつもこいつも、老いぼれが一人死ぬってぐらいで」
「――そんなこと言わないで下さい」
あのなぁと嘆息してリノはこいこいと右手で手招きをする。
ふらっとベッド横に近づいたクロスを見上げて、言う。
「人は死ぬ、そして忘れられていく、それが摂理だ」
でも、とクロスは小声で呟く。
握った拳に力が入って、爪が刺さって痛いのだけど、そんな痛みは霞がかかったように遠くて。

なんて、言ったらいいのか、分からない。

この人は本当に、本当にこの国の太陽なのだ。
王宮を照らし国を照らし、皆の希望の象徴なのだ。
だから、この人が死んでしまったら、どんなに。

「そろそろ会いたいからいいんだよ」
「だ」
誰に、といえなかった。
左手が熱を帯びる。
その人は。
「クロス、しゃがめ」
そっと膝をその場に折ったクロスの顔に、リノは震える手を伸ばす。
細くなり節くれだった指が、クロスの髪を触り頬を撫でる。
「リ――」
「――――大きく、なったな」
呟いた彼の目は、どんな色をしているか分からないほど細められていて。

「十六年間ずっと、心のどこかで、期待していた」
そう言うリノの口元は緩められていて、その言葉は優しい。
「一目見てわかったよ、同じ髪と目の色だ。異性だから印象は違うが、近くで見るとよく似てる」
「…………」
「すまんな、黙っているつもりだったんだが」
柔らかいクロスの髪を、リノはそっと撫でる。
慈しむその動作に、思い切り声を上げて泣きたくなった。

今なら言える。
ずっとずっと、薄々気付いてそれでもなにか恥ずかしくて、今更な気分で言えなかった事が。
今しか、言えない。





「――おとう、さん」

ぎゅっと手を握って、クロスは俯いて呟く。
リノの目が大きく見開かれて、次に破顔する。

「おとう、さん」
「……悪かった」
「いいん、です。僕はこれで、幸せです」
静かな謝罪の言葉に、クロスは首を振る。
「そうか。あいつも喜んでる」
「……はい」
「――クロス」

手を出せ、と言われてクロスはリノの手を握っていたのを放すと、彼の前に手の平を返す。
その手の上にころんと置かれたのは、精緻な細工のなされた指輪だった。
螺鈿の細工が、細かい模様を作っている。
「こ、れ?」
「オベル王家の印だ。お前のものだ」
「え、で、でも――」
「お前のものだ――ほら、はめてみろ」

促されておずおずとクロスは手袋を取り指輪を指にはめる。
右中指に丁度収まったそれを満足げにリノは見た。
「ぴったりだろう――俺の見立てに間違いはなかった」
「これは」
「これは、生後一ヶ月の時に作らせたものだ」
「――っ」

主語の無いその言葉の意味を悟り、クロスは言葉に詰まる。
「お前のものだよ――本当は、成人する時にやるんだがな」
遅くなって悪かった、と。
ちっとも悪びれない笑顔でリノは言う。


「わざわざ呼びつけて悪かったな」
「そんなっ」
微笑むリノの顔は、疲れていた。
今の今までもったのが奇跡だと聞いていた、だから、つまりそれは、もう。
「こっちへ来て顔をもう一回見せろ――ああ、本当によく似てる」
「……加減が、よろしくないんだったら」
「寝てたって治るもんじゃないだろう――……いい男に育ったな」
力なく笑ったリノを間近で見て、クロスは本当に泣きそうだった。
涙が浮かんでいるかもしれない。
それだけは、それは、見られたくない。


「俺は――お前が息子である事を誇りに思う」

その言葉で。



「っ…………」
「――泣くなって……そんなところまで母親似か」
頬を流れる涙をぬぐって、リノは楽しそうに声を立てて笑う。
ぬぐってもぬぐっても落ちてくる涙をなんとかしようと、クロスはぐいっと目を擦るが、途絶えない。
「クロス」
「……っ、んな、こんなの」
「クロス、フレアを頼んだぞ」
「――っ、はいっ」
「それと、その紋章を守ってくれよ」
「……はい」

「あとな」

リノは先程よりずっと小さな声で呟いて、でもそれはクロスの耳にきちんと聞こえた。

「どうしても辛くなったら、全てを投げ捨ててもいいんだと覚えておけ、お前は我慢しすぎる」
「……はい」
涙を拭いて、しっかりとした顔で頷いたクロスを見て、リノは嬉しそうに目を細める。

「それでこそ俺の――息子、だ」

最後は口の形だけ残して、リノはそのまま目を瞑る。
クロスの頬に触れていた腕がたらりと落ちた。
「っ! お父さんっ!!」
叫んだクロスの声に、フレアが入ってくる。

「どうしたのっ!?」
「フレア――」
「……見なさいよ、クロス」

フレアはリノの横に膝をついて、父の穏やかな顔を見つめる。
「嬉しそうに、笑ってるわ」
「…………」
「本当に、嬉しそうにっ……っ」
声に出さず、それでも細かく肩を震わせて、フレアはその場に崩れる。
クロスは一瞬の躊躇の後、フレアの肩を抱き寄せた。
「……っく」
無言で回された腕の中、フレアは泣きじゃくる。
そんな彼女を無言で見つつ、クロスは眠っているとしか思えない彼の王を見た。


約束は守ります。

だから。



だからどうか、安らかに。




 




***
拍手で「縁談」にてクロスがもってたオベル家の印について質問が来たので、エピソード公開です。
4主がリノの息子ってのは、ラプで九割五分間違いなさそうである事がわかったので、助かりました。

旅シリーズ「胸中決裁」でシグールに「家族」の死を看取ったかといわれ、看取ったと答えているのは、この件についてです。
なんて大昔からの伏線を引っ張ってみました。