<降臨した恐怖>
ぐらりと揺れる足元に、シグールは唇を尖らせて文句を言う。
「もーテッドっ、しっかり支えててよ!」
「お前こそ早く終わらせろよっ」
きついんだよこの格好。
そう言いながらテッドは肩の上に座っているシグールの足を押さえる。
「すみません坊ちゃん、テッド君」
「いいよ、手伝うって言ったの僕だから」
グレミオに頼まれて、天井からぶら下がったシャンデリアを、シグールはテッドに肩車をしてもらって拭いていた。
テッドの足元には台もある。
普通なら使用人がやる仕事なのだが、生憎ここにはグレミオ、パーンにクレオくらいしか常時いない。
後はたまにアレンやグレンシールが顔を出すぐらいで、元々いた家人のほとんどには前にシグールが本家へ行くように指示してしまった。
理由は簡単で。
「グレミオさん、窓拭き終わりました」
「ありがとうございますジョウイ君。じゃあ二階の飾り窓の方をお願いしていいですか」
「はい、わかりました」
この家の中をしょっちゅううろつく元ハイランド皇王ジョウイの存在を隠すためである。
リビングへ向かったグレミオと入れ違いにジョウイが階段の方へやってくる。
「難儀してるな、手伝おうか」
足を止めて見上げてきたジョウイを振り返り、シグールは笑顔を見せる。
「いいよー、それより上の飾り窓一枚十万ポッチぐらいするのもあるから気をつけてね」
「なんでそんなものが一家庭にあるんだ!?」
ありえないと呟きながら階段を上っていくジョウイ。
あははーと笑いながら片手を振っていたシグールが、少しバランスを崩す。
「うぉい、気をつけろ」
「うん、だいじょ――」
シグールの手が支えを探してシャンデリアを掴む――が、埃が溜まっていたそこはつるりと滑った。
「うわっ!?」
「っ!?」
ドスン
ゴン
「!? シグール?」
仰向けにひっくり返って床に激突したシグールに、おそるおそるテッドが声をかける。
さっき、すごくいい音がした。
かなり石頭の彼なので、大怪我の心配はなさそうだが、それでもテッドの身長より上の位置から落下したのだから、相当痛かっただろう。
「どうしまし――ぼぼぼぼぼっちゃーんっ!?」
「お、ちたんです」
「落ちた? あの高さからですか? と、とりあえず氷嚢を持ってきてください」
「あ、はいっ」
テッドが慌てて台所に駆け込むと、タイルを磨いていたクロスがどうしたの? と首を傾げる。
「すぐに氷水じゃない氷嚢!」
「ルック」
「……はいはい、何があったわけ?」
大きな氷の塊を取り出してきて、かつんかつんと削りだし、袋に水と一緒にそれを入れながらルックが尋ねる。
「落ちたんだ」
「あ、そう」
テッドには主語がなかったが、その顔が若干白かったので事の次第を察してルックは氷嚢を押し付ける。
渡されたそれを手に、テッドは即効で階段のところへ逆戻り。
シグールの頭を膝の上に乗せていたグレミオが、ほっとした顔で振り返った。
「血も出てないし、たんこぶもほとんどないし呼吸も正常です。ちょっと気絶しているだけみたいですね」
「そか……よかった」
僅かに腫れている部分に氷嚢を押し付けて、テッドはその場に座り込む。
「部屋に運ぶ?」
「いえ、ソファーの上にでも寝かせておけばいいと思います」
よいしょ、と言いながらシグールを抱きかかえようとしたグレミオの腕の中で、小さな声が上がった。
「!?たい」
「坊ちゃん? 坊ちゃん大丈夫ですか?」
んーと言いながら目をこすって、シグールがふっと目を開いた。
「心配させやがって」
ほっと笑みを作ったテッドを見て、続いてグレミオへ視線を移し、それから少し離れた所で見ていたジョウイを見つめて、シグールは目を瞬かせた。
「えっと」
「落ちたんですよ」
「……じゃなくてー」
こと、と音がしそうなほど首を傾けて、シグールは尋ねた。
「ここ、どこ?」
いくつか応答を繰り返していたグレミオが、首を振りながら立ち上がる。
「綺麗に記憶が飛んでいらっしゃいますね」
「全部!?」
「ええ、名前から何から全部です」
ちょっと話していい、と言いながらルックがソファーに座らされているシグールに近づく。
片手に万年筆と本、それになぜかフォークを持っていた。
「はい、これ何」
「万年筆」
「これは」
「フォーク」
よどみなく受け答えするシグールに、ルックは頷いて本をめくる。
「ここ読んで」
「……太陽暦314年、ミューズ市を中心としてジョウストン都市同盟が成立、中心になったのは当時のミューズ市長……」
「もういいよ」
本をシグールから取り上げて、ルックは一同の元へと戻ってくる。
「自分の事に関する記憶がないだけで、一般常識は残ってるね」
文字も滞りなく読んでたし。
そう言いながら本を適当な棚に戻して、ルックは肩を竦める。
「どうするの」
「同じショックを与えるとか」
真顔のジョウイの案に、グレミオが顔を曇らせる。
「余計悪くなったらどうするんですか」
「様子を見るしかないんじゃないですか?」
心配そうな顔をしてセノが言った。
「シグールさん、名前も忘れちゃってるんですよね? それってきっと、すっごい心細いなって思うし」
そうですね、と頷いてグレミオはシグールの方へと近づいて、緊張した顔でそこに座っていた彼の隣に座って話しかける。
「坊ちゃん――ええと……」
「坊ちゃんって、僕のことですか?」
じっと見上げてきたシグールに、グレミオは頷いた。
「ええ、そうですよ。私は坊ちゃんのお世話係のグレミオと申します」
「グレミオ?」
「はい、グレミオです」
「ええと、僕はシグール、っていうんですか?」
「……はい、シグール坊ちゃんです。ここは坊ちゃんのおうちです」
「あそこの人は誰ですか?」
そう言ってシグールがテッド以下を見やる。
グレミオは悲しそうな微笑を一瞬浮かべて、あそこにいる人たちは皆坊ちゃんのお友達ですよ、と言った。
「おともだち?」
「はい」
「誰もわからないのですけど」
「ちょっと坊ちゃんはいろいろ今だけ忘れてしまっているんです、すぐに思い出しますよ」
そういうとグレミオはテッド君と呼ぶ。
「テッド君?」
「あー……あ、はい」
「坊ちゃんをお願いします。私は念のためにお医者さんを呼んできます」
グレミオの言葉に生返事を返して、テッドは座ったままのシグールの前にぼうっと立つ。
その表情は分からないけれど、じっと無言で目の前に立たれて、妙な圧迫感を感じ、シグールはぎゅっと服のすそを握りしめる。
「あ、の……」
「この馬鹿テッドっ、シグールが怖がってるじゃないかっ」
ぺしっと言う音と共にテッドの頭をクロスがはたく。
「シグール、これテッド。君の親友ね」
「テッド……」
「僕はクロス、あっちがルック」
「シグールさん、僕はセノです」
「僕はジョウイ」
口々にそういわれて、シグールは瞬きをしてから頷いた。
「えっと……テッドさんに――」
そう言い出したシグールの隣に腰を下ろして、バンダナのとれている髪をくしゃりと撫で、テッドは笑顔を作った。
「テッドだ、シグール」
「あ、う、うん。それと、クロスにルックにセノにジョウイだね、うん、覚えた」
ありがとう、と言ってシグールは固いながらも笑みを浮かべる。
「……ありえない」
「どうしたのジョウイ」
呟いた幼馴染を振り返ったセノは、口元を押さえて明後日の方向を見てるジョウイを見つけた。
「ありえない……」
「ああいう顔もできるんだねぇ」
ぼそっと背後でクロスが言う。
「ジョウイの好みでしょ」
「なっ……何を言ってるんですかあんたは!!」
いきなり上がったジョウイの大声に、シグールはびくっと肩を震わせてそちらを見る。
「ジョ……ジョウイ、どうか、したの?」
「あ、いや……なんでもアリマセンほんと……」
おずおずと尋ねたシグールにぱたぱたと目の前で手を振って、ジョウイは床に膝をつく。
「ありえないアレがシグールだなんてありえないありえないありえないありえない」
「よく本人前にして言えるね」
「お前は平気なのかルック!」
「そういえば元々アレだったな、初対面時は」
腕組みをして言ったルックに、マジですか? と思わず目線で問いかける。
返ってきたのは肯定だった。
そんなすったもんだをやや離れた場所でやっている事からは目を逸らし、テッドはシグールの頭を撫でていた。
気持ちいいのか、心なし目を細めている。
……昔のシグールを思い出す。
「テッド、僕の家族は?」
今はいないのかな。
そう言いながら見上げてきたシグールに、テッド返せる言葉がなかった。
彼の母親はテッドがシグールを知るかなり前に亡くなって。
父親は、彼が、その手で。
「シグールの家族はここにいるよv」
脇からクロスがぐいぐいとテッドの頭を押しながら笑顔で言った。
「テッドは君の親友でもあり兄代わりでもありまた恋人でもある」
「えっ?」
「おいこらクロス!!」
何ヌかしてんだお前は!
声を荒げたテッドに、クロスは微笑む。
「照れちゃってv」
「照れちゃってvじゃねーっ!! おい、シグール嘘だからな本気にするな……シグール?」
慌てて弁解しようとシグールの方を向いたテッドは、俯いている友人の姿に思わず声をかける。
(呆れないでくれ、馬鹿なのは俺じゃなくてクロスだから!)
そんな必死の心の叫びの中、もう一度声をかけると、少しシグールが顔を上げる。
頬を赤らめて、シグールは上目遣いにテッドを見た。
「ほん、と?」
「……え、いや、おい、ちょっ……」
引きつる口元を意識しながら、テッドの頭の中は高速空回りしていたが、他の五人はそれが分かるはずもない。
「ほんとだよー、ねルック」
「……まあ」
笑顔で振り向いたクロスに、ルックは呆れた顔で頷く。
「え」
「ね、セノv」
「そうなんですかー?」
イマイチ会話のわかっていないらしいセノはクロスに再度そうだよね、と言われてそうかもしれませんと頷いてしまう。
「こいびと……」
ぽうっとした顔でテッドを見上げて、シグールは照れくさそうに笑った。
「えへっ、ちょ、ちょっと恥ずかしいな」
バタン
盛大な音がして、テッドが床に転がっていた。
「テッ、テッド!?」
どうしたの、大丈夫?
顔色を変えたシグールに、テッドはかろうじて片手を上げる。
「ダイジョウブ……ダイジョウブナノデチョットシツレイイタシマス」
そう言ってテッドはばったりと床に倒れこむ。
「テッド、テッド、大丈夫?」
「大丈夫だよ、テッドは時々こうなる持病があってね」
笑顔でテッドをゆするシグールの肩に手をかけ、クロスはいけしゃあしゃあと言う。
自分がきっかけというか原因を作ったという自覚はあるのだろうか。
「放っておけば元に戻るから」
「なら、いいけど」
心配そうな顔のまま、立ち上がったシグールに綺麗な無表情でルックが告げる。
「ちなみにあそこに突っ立ってる金髪の彼が君の兄ね」
「え、おにいさん?」
「……!! なわけないだろ……げぼふっ」
金髪の彼、というのが自分だと自覚したジョウイがルックに掴みかかろうとした瞬間、ルックの拳がジョウイのみぞおちにめり込む。
「おにい、さん?」
「そうだよ」
「おにいさん……」
さっきグレミオが「坊ちゃんのお友達ですよ」と紹介したことは忘れているのか、シグールは床に突っ伏しているジョウイを見ながら、幾度もおにいさんと呟く。
「ああ、おにいちゃんって呼んであげたほうが喜ぶよ、「ジョウイおにいちゃん」って」
笑顔でそう言われて、シグールは頷く。
かろうじてそこにダメージから回復しつつあったジョウイが、必死に顔を上げる。
ちょうどそこで、シグールと視線があってしまった。
頬をうっすら染めて、シグールは少し小さな声で言う。
「えっと、ジョウイおにいちゃん」
「!?」
ゲン
盛大な音と共ににジョウイは頭から床に突っ伏した。
「あはは、シグールさん、ジョウイはシグールさんのお兄さんじゃないですよ」
ルックもからかっちゃダメじゃない、と笑いながらセノは突っ伏したままのジョウイを揺する。
「ジョウイも、失礼なことしないの」
「アレが僕にアレが僕におおおにいちゃおおおおおおにいちゃんっておおおおおにいちゃんっていった」
「まったくもーう」
何言ってるのさジョウイ。
「だだだってアレがアレが僕にぼぼぼ僕におおおお……ひゃひゃひゃひゃ」
「……ジョウイが壊れた」
「下手な兵器より破壊力あるね」
現実から逃避するためあちらの世界へ脱出してしまい、けたけたと笑い出したジョウイを見やってのほほんと会話をするクロスとルック。
「えっと……ジョウイは僕のおにいちゃんじゃないの?」
「うん、違うよ」
「……ルック、嘘、言ったの?」
うりゅ
シグールの目に涙が浮かぶ。
「……クロス、ごめん、僕精神壊したくない」
ぼそっと呟くとルックはその場から掻き消えた。
「あっルックっ!!」
「き、えちゃった」
目をぱちくりさせたシグールは、クロスの服を引っ張る。
「クロス、ルック消えちゃった」
「あ、ああ。そのうち戻ると思うよ」
びっくりしているシグール相手にとりあえず文句のつけようのない笑みを浮かべておいたが、クロスは内心焦っていた。
この状態のシグールを野放しにするのはいろいろやばい。
マトモに相手ができるのはグレミオとセノくらいだろう。
クロスも先程から背筋の悪寒が止まらないので、そろそろ引き上げ時だ。
「ええと……起きろテッド」
げし
げしげしげし
シグールにこそこそとなにやら耳打ちしながら、足元のテッドを数回蹴って、クロスは呻き声が聞こえると即効で引っ張り上げる。
「はい、よろしく。行こうかセノ」
「え? い、いいんですか?」
シグールの隣に無理矢理座らされたテッドは、俯いていてその表情はセノからは見えない。
具合が悪いのだったら大変だ。
そう懸念をクロスに告げると、首を振られた。
「平気だよ」
「あの、ジョウイは」
「……引っ張ろう」
「そうですね……」
床に転がったまま笑いつつ、時折痙攣を繰り返すジョウイの両手をセノが、両足をクロスが引っ張りその場から退散した。
「テッド……」
カッ飛んだ意識がようやく戻ってきたテッドは、ぼんやりとした意識の中シグールの声を聞く。
なんで俺床に寝てたんだっけ。
気のせいか膝の辺りに圧力がかかっている。
疲れてるのかな。
「テッド」
「し、ぐーる?」
「テッド」
「なん……っ!?」
視界が一気に戻った。
それと共に記憶と思考力も。
「何してるんだお前!」
膝の上に圧力? ああかかっていたとも。
シグールが膝の上にちょこんと座ってるんだって待ておい何のため!?
「……きす」
「するなーっ!! しなくて、いいっ、いいです、いいからっ」
「……いいの?」
「イ、イデス」
でも、クロスがそうしたらテッド喜ぶよって言ってた。
そう言いながらシグールはその顔をテッドに近づける。
「いや、ほんとちょっとまっ」
ぐいと彼を押して身体を遠ざけようとして、すかっと途中から押す感覚が消えた。
「あ、れ?」
ドスッ
ガンッ
「……あ……」
力加減をしなかったのか、シグールの格好が思いのほか不安定だったのか。
シグールが仰向けに床の上に伸びていた。
「坊ちゃん、坊ちゃんぼっちゃーんっ!」
「あれ、グレミオどうしたの」
「? 坊ちゃん? 坊ちゃんこそ大丈夫ですか?」
医者が見つからず、慌てて家に戻ってきたグレミオを、リビングに座っていたシグールが迎える。
「頭にたんこぶがなぜかできてるんだけど、その他は平気だけど」
グレミオこそそんなに慌ててどうしたのさ、安売り市にでも行ってたの?
そう言って笑ったシグールを、グレミオは抱きしめた。
「あああよかったー、坊ちゃんが元に戻られて」
「元って、どういうこと?」
「あれ、ご存じないんですか?」
「僕、グレミオ手伝って大掃除してたとこまでしか記憶がないんだけど、テッド以下五名がどこにもいないんだ」
どこ行ったんだか。
そう言って首をかしげたシグールに、グレミオはお忘れになっちゃったんですねえと答える。
「坊ちゃん、記憶をなくされてしまいまして、お名前から私のことから何からさっぱり」
「え」
「それで、テッド君達に坊ちゃんをお預けして、お医者さんを探しに行ったんですが」
「……ふうん」
にっこりとシグールは微笑む。
「ちょっと探してくるよ」
「ええ、夕食に間に合うように帰ってきてくださいね」
「大丈夫」
立ち上がったシグールは、真っ黒な笑顔で家の外へと出て行った。
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4ルクが仕掛け人。
悪のりすると始末が悪いペアだった。
そして記憶喪失の坊はホラーだ。