<水上にて>


霧に深く覆われた湖を一艘の舟が漕ぎ入れていた。
手を伸ばした先すら覚束ないほどに濃いそれは、深夜から明け方にかけてトラン湖の全体へ広がっている。
その中で舟を出すのは危険だからと今まで禁止令が出ていたのだが、今となっては期限切れだ。
何よりその掟を作った張本人が破っているのだから尚更に。

人が四人も乗ればぎりぎりな大きさの舟は、その半分ほどを布で覆われている。
舟の縁より少し上くらいまでに膨らんでいるものは波で舟が左右に揺れる度に僅かに動いた。
船頭はゆっくりと船着場へと舟を寄せ、流れないように紐を湖面に立っている棒にくくりつけたところで振り返った。

「もういいぜ」
「んー」
もぞ、と荷物が動く。布を押し上げてシグールは窮屈だった手足を大きく上へと伸ばした。
「悪かったね、こんな朝早くに」
「別にいいけどよ……あんた戻らないのか?」
どこに、とは言われずとも分かっていたから、シグールは曖昧に返した。
戻りたくないからこんな不法侵入すれすれの方法でここまで戻ってきたのだ。
トラン湖に聳え立つ古城。決して短くはない時間を過ごした場所へ。

この辺り一帯はソニアの管轄で、今は許可がない限りあの城へ近づく事もできない。
国の方が落ち着けばその内観光名所にでもされそうだが、今はそこまで手が回らないし、まだ私物やら何やらが沢山残っている。

そんな状態だから国の上層部から一種の「お尋ね者」とされているシグールは、迂闊に近づく事もできなかった。
だから霧の一番深い時間を選んで、紛れるようにやってきた。
船頭はアンジー。ここを根城にしていた湖賊は霧の中でもある程度自由に舟を操れる。
保険としてシグールは荷物の振りをして姿を隠し、ようやく踏みなれた大地に足をつけた。






アンジーは古城の中でシグールが何をしてきたか知らなかった。
船着場で待っていたし、ついてこいとも言われなかったから、それほど大荷物ではなかったのだろう。
出てきたシグールは小さな包みをひとつ増やしていただけだった。

再び漕ぎ出した舟の中、頭から布を被っているシグールに向けてアンジーは問いを漏らした。
「しかしこんなとこに何の用があったんだ? わざわざあのシューレンの目をかいくぐってまでよ」
「色々と放置してあったからね」
「……倉庫の中身ならもうグレッグミンスターに移動したみてーだけど」
「……あんにゃろ」
レパントめ、とシグールは毒づいた。暫定とはいえトラン共和国のトップに大した言い草だ。
これも英雄のなせる技か、いや単にシグールだからか。
「せっかく集めたのろい人形ー……高級品もいっぱいあったのに」
「あんたそれ取りにきたのか……?」
「いや違うけど。覗きもしなかったから空になってるのも知らなかった」
何か悔しいよねそれって、とシグールはぶつぶつと呟く。その様子に肩を竦めて、アンジーはのろい人形はまとめてお祓いした後焚きつけにされたと教えるのはやめておいた。

ごそりと少し布を押しあげて布の隙間からシグールが顔をだす。
「アンジー」
「なんだ?」
「これから何すんの? 湖賊はもう廃業だろ」
「あー……」
今までは湖賊として帝国軍から物資を巻き上げたり密輸品の取引をしたりそれなりに活躍をしていたが、新しい国が建った今同じ事をやるのは難しいだろう。
ソニアの監視の目も厳しくなるだろうし、巻き上げる相手もいなくなる。
密輸の口もぐっと減るだろう。何より一応これでもアンジー自身も建国に力を貸した手前、その国を相手どって賊をやる気にはなれなかった。

レオナルドとカナックはどうするつもりだろうか。
聞かずともあの二人ならば、湖賊を廃業したとしてもくっついてきそうだという確信はあった。
「どうせなら舟使ってまっとうに稼いだら?」
「……柄じゃねぇよ」
「いいじゃない、アンジー達の腕なら船頭とかもいけそうだよね」
お客が怖がって逃げそうだけど、とシグールはからからと笑う。
からかっているのかと軽く睨みつけると、更に笑みを濃くした。

「ま、適当にやるさ」
岸が見えてきた。霧のところどころが明るい、そろそろ陽が昇ってくるだろう。
霧が晴れる前に着けてよかったと、船べりを岸に擦りつけた。
「着いたぞ」
「ん、ありがと」
起き上がってシグールは岸に上がる。
アンジーはこのまま自分達が根城にしていたアジトへと一度戻るから、ここでお別れだ。
祝賀会の夜に姿をくらませてから行方不明と世間ではされている建国の英雄の行き先は不明だ。

「アンジー、これあげる」
「……なんだ? これ」
ぽん、と投げ渡されたそれを摘み上げてアンジーは首をかしげた。
指輪なのは見て分かるが、女物にしてはごついし、男ものにしては細工が細かすぎる。
幾重もの細工が施された金の輪に、大きな赤い石がはめ込まれた台座が取り付けられている。それを取り囲むように六つの小さな石が、丁寧にカットされて付いていた。
「うちのね、家宝」
「……なんだって?」
ぽかんと口を開けてアンジーは笑っているシグールを見る。
家宝っていうと、つまりあのマクドール家の。
「もうあったって仕方ないし。運賃の代わりってことで」
「おいおい……本当にいいのか?」
「売ればそれなりにはなると思うよ」
それなりどころかとんでもない額がつきそうだ、とアンジーは掌に乗っているそれを見つめる。
……まぁもらえるのであればもらっておこう。

「まぁもらっとく。返品不可だぞ」
「そこまでケチくないよ」
「倉庫の中身について文句言ってたくせにか」
「それはまた別」
そう言って、シグールはそれじゃあね、と別れの言葉を口にする。
辺りの明るさは増してきて、そろそろ本当に日が昇りそうだ。
「おう、じゃあな」
踵を返して歩き出したシグールを見送るでもなく、アンジーも舟を漕ぎ出す。
自分も誰かに見つかればまずいことに代わりはない。

櫂をこぎつつ、霧でしっとりと水の膜をまとった指輪に視線を落とす。
少しずつ晴れてきた中に差し込む朝日にきらきらと輝いている指輪を試しに嵌めてみた。
当然似合うはずなどないのだが。

「ま、売れねぇよな」
売ったら確実に足がつきそうだし、何より帝国が滅んだばかりでは時期が悪すぎる。
帝国六将軍の家名であると同時に、英雄の実家でもあるのだから、この指輪の宝石に刻み落とされている家紋は。

運賃にしてはあまりに高すぎるそれを擦り切れた服の内側にしまいこんで、アンジーは朝焼けに染まる空気を吸い込んだ。