<牢獄の晩酌>
その部屋は、彼女の慣れていたそれに比べればあまりにも質素だった。
遠征中の寝床ですらこれよりまともであったはずだ。
もっともそれは彼女の身分が身分であったからで、今の自身は囚人で捕虜なのだ、真っ当な扱いを受けるはずもない。
牢の扉を叩く音が聞こえて、ソニアは身体を起こした。
牢屋の内側に張り巡らされた厚いカーテンのせいで外にいるのが誰なのかはわからない。
このカーテンは彼女がここに入れられた時につけられたものだ。
誰の命令かは察しが付いた。
だからこそ気に喰わなかった。
「誰だ」
「少し、話がね」
小さいけどよく通る声に、ソニアは立ち上がるとカーテンを開く。
そこに立っていたのは少年。
トレードマークの緑のバンダナをとって、赤い服も着ていない。
「何用だ、シグール」
「別に身構えなくてもいいでしょ」
ひょこと肩をすくめ、カチャリと錠を開いて入ってくる。
片手には酒瓶を持っていて、たしかまだ子供だと彼の年齢を正しく記憶していたソニアは眉をひそめた。
「もうすぐ、グレッグミンスターが落ちる」
「……そうか」
「前祝いだよ、祝おうよ」
ドン、と瓶を机の上においてどこから取り出したのかグラスも二つ出してくる。
その二つをぐいとソニアの鼻先に近づけて、本気なのか冗談なのかわからぬ笑みを浮かべた。
「どっち?」
意味がわからず答えないソニアに、どっちなのさ、とシグールは重ねる。
「もちろんどっちにも毒なんて入ってないからね」
「お前っ……!」
顔を紅潮させたソニアは片方のグラスをシグールの手からひったくった。
からりと笑ってそれを言う彼の心がわからない。
ソニアが最後に覚えていたシグールは、友人という少年とともに笑い転げながらグレミオの後をついて回る子供だった。
ソニアに会えば遠くからぺこりと頭を下げてくる、そんな子供だったのに。
こんな深すぎる暗い目で、それでも鮮やかに笑う男ではなかった。
「これ、好きでしょ」
返事を聞かずに注がれた酒は深い琥珀の色をしていた。
その芳ばしい香りといい色といい、一つ思い当たるものがあってソニアは思わずラベルに目を走らせる。
「テオ=マクドールの愛した酒だよ」
あっさりと認めて、シグールはこくりと一杯あっという間に空ける。
「お前は……何を……」
「僕は死なないよ、残念だったね」
唐突過ぎた言葉にソニアは何も返せなかった。
「僕は死なない、絶対に。なぜなら僕の紋章は周囲の人間を喰うからさ」
グラスを持つ手はむき出しで、手の甲には黒い見慣れぬ紋章が浮かび上がっている。
生理的な嫌悪を感じて、ソニアはグラスに触れている手が震えるのがわかった。
「命が危険になるとね、右手が疼く」
そう言った彼の目に、ソニアは寒気を覚えた。
「お前、は、何を言っているのか、わかっているのか」
「僕は軍主だからね、軍主を死なせないこの紋章はとても働き者さ。功労賞を送るべきかもね」
冷めた目で語る彼。
その右手に誰が眠っているか薄々察していたソニアは激昂する。
「お前っ!」
我慢できずに掴みかかった彼女を無表情に見返した。
「僕はあなたとは違う。結果の見えた勝負のために多くの兵を犠牲になんかしない。シャサラザードを落とす際、あなたの部隊は全滅させた。その意味がわかっているのか」
「それ、はっ――軍人たるもの」
「ならテオ=マクドールが死んだこともまた軍人たるもの、なんとやらだ。あの人は最後まで武人で将軍で、だけど最後の瞬間だけは父親だった」
くたりと力の抜けたソニアから離れて、シグールはその目をまっすぐに彼女へ向ける。
「僕、あなたが嫌い。なぜかは言わなくてもわかるでしょ」
「……ええ、十分に」
反乱軍がすでに帝国の主要な町のほとんどを手中に収めていたことを知っていた。
国は完全に傾いていることも、残る将軍は自分だけのことも。
他の将軍は惑わされたわけでもなく、自分の意思で帝国を裏切ったことも。
どちらが正しいのかは明白だった。
皇帝が仁義も道理も失っていたことも。
けれどもソニアは反乱軍には組しなかった。かといって皇帝への忠誠心が残っていたかというわけでもない。
ただ、あの人を奪った反乱軍が許せなかった。
そんな心で挑んだから、その心を真正面からぶつけたから。
「所詮女だと、軽蔑するわね」
目を細めたシグールは、くいっとまたも酒を呷る。
「……別に」
「気を遣わなくてもいい」
「あなたは父が選んだ人だ」
だからそれだけで尊敬に値すると思っている。
「他の価値はないと?」
「……一口ぐらい飲めば? せっかく仕入れたんだし」
勧められて口をつけた酒はとてもきつかった。
一度晩酌をともにしたが、あまりにきつくて水で割らなくては飲めなかったのを覚えている。
相手は氷もいれずにそれを飲み、穏やかな顔で語った。
いつかそれを息子と飲むのが夢だと。
そのきつさに顔をしかめたら言いたい言葉があるのだと。
「結構、辛いでしょ」
「……これが大人の辛さなのよ」
苦し紛れに言うと、飲めてないくせに、とくすくす笑ってシグールは三杯目を口にする。
「辛いものを舐め続ければ気にならなくなる。それが大人の味じゃない? 苦労もそのうち無味になる」
その言葉は、愛した男から聞いた言葉と同じで。
声も顔も何もかも違うのに、確かのあの人の生き方が受け継がれていることに気がついた。
「残り、あげるよ」
立ち去ったシグールが扉を閉めてから、一口しか飲んでいないグラスを抱え込んで、祈った。
たしかにあの人の心は、息子に受け継がれていたことに感謝して。