血の跡が汚くこびりつく。
ドアの前に、シグールは膝を折った。
「……けろよ……」
呟いた声は、もう、届かない。
<喪失>
何をお願いしても、いつも聞いてくれた。
無理な頼みをしても、笑って、後で必ず叶えてくれた。
母さんに会いたいと言った時は、困ったように笑って、父さんが昔しまってしまった母さんの私物まで持ち出してきてくれた。
父さんの遠征に付いていきたいと言ったら、一晩かけて説得してくれて。
帝国を裏切る時だって、ついて来てくれた。
―――初めて 坊ちゃんの言う事に
こんな時に。
「初めて」なんて使わないで。
ビクトールが持ってきたマントを握り締めて、シグールは部屋の中にこもったまま、黙っていた。
つい昨日まで、半日前まで、このマントには持ち主がいたのだ。
彼の背中を覆って、その身を守っていた。
「…………」
膝を抱え、マントに顔を埋めて、シグールは目を瞑る。
あまりに色々な事がありすぎて、もう何が何だかわからない。
何人死んだだろう――何人……そのほとんどが、自分の命令一つで。
だけど、思い出す声がある。
――私は……一人の女として生きてしまった……リーダーとしては……失格だったわ……
彼女が間違ったなど、誰が思うだろう。
正しい行動だった、子供を庇うというのは。
それでも、彼女の行動がリーダーとして間違っていたかといえば。
……間違っていた。
そう、としか結論付ける事はできない。
オデッサ=シルバーバーグという人間は、解放軍のリーダーとして、あの名も知らぬ子供よりずっとずっと大事な存在だった。
だから、彼女はたとえ子供を見殺しにしても、自分の命を助けなければいけなかった。
それが分かっていてもオデッサは、自分を止める事ができなかったのだろう。
それとも、自分には無理だと思っていて、誰かに託すつもりだったのか?
「それが、僕……」
シグール=マクドールを、彼女より優れたと思えるリーダーが出てきたから、オデッサはあんな行動に出たのか。
だとすれば。
「僕は、僕はどうすればいいの」
自分がいなくなったら、誰が後釜をしてくれるか。
フリックはダメだ、ビクトールも無理だ。頼めば努力はしてくれるだろうけど、シグールのようなハクがない。
ではマッシュは? マッシュは――……しかし、彼はシグールが巻き込んだも同然だ。
彼の本領は軍師、軍主に要求されるものとは、違う。
「……グレミオ……」
呼べばいつだって側にいたのに。
微笑んで、頭をなでてくれたのに。
こういう時にどうすればいいかだなんて、誰も教えてくれていない。
「……テッ、ド」
生きているのだろうか。
あの傷で、生きているなんてわけがないとも思う。だけど、生きているような気もする。
「ソウルイーター……教えてよ」
前の宿主のことを。
少しでいいから。
「三百年も一緒だったんだろっ……教えてよ!」
テッドならなんて言っただろう。
あのまま一緒に来てくれて、側に今いたら、彼ならなんて言っただろう?
「父さん……」
父はなんと言うだろう。
「……きっと、最後までやれって言うなぁ……」
自分に厳しい人だから、途中で投げ出すなと怒られる気もする。
だけど。
「……もぉ、やだぁ」
ぽたり、と涙がシグールの頬を零れた。
今まで、我慢していた。
目の前で死んでしまったオデッサの姿が、あなたならと頷いたマッシュの姿が、常に側にいて大声で励ますビクトールの姿が、何ひとつ異議を唱えずシグールの決定に従うクレオの姿が、あったから。
だけど、毎晩グレミオは、部屋の外に立っていて。
小声で呼ぶと、入ってきて、枕元で頭を撫でながらいつも言ってくれた。
――辛かったら辞めてもいいんですよ。
――泣きたかったら泣いてもいいんですよ。
――だって坊ちゃんは……まだ子供なんですから。
何度か縋って泣いたこともある。
自分の命令で被害を出した時や、マッシュの作戦にどうしても納得がいかなかった時。
みなの期待が重すぎて、仲間が増えるごとにそれは積もって。
だって、自分はただ、たまたま貴族の嫡男で、たまたま宮廷魔術師が狙うという紋章を手に入れてしまって、たまたまオデッサの最期に居合わせただけだ。
そんな偶然が積み重なった上で選ばれただけなのに、皆が無条件にシグールを頼る。
……僕は、ただの子供なのに。
零れた涙が、ゆっくり落ちる。
緑のマントに染みができて、シグールは無意識にそれをなぞる。
ごわついた生地のマントは、端の方がほつれている。
どうして、あんなことを、残されたシグールの事は。
「…………」
……同じ事だ。
シグール=マクドールは、グレミオより、ずっと重要な人物だったから。
身を呈して守って、彼に危険が及ぶようになる命令には逆らったまで。
「……そう、か」
僕は、シグール=マクドールだから。
「解放軍リーダー」で、軍主だ。
皆が僕を頼るのも、僕の命を守るのも、軍主だから当然の事で。
だから僕は。
「……軍主、だから」
泣いても、いけないし。
苦しんでも、いけない。
そんな姿は、軍主らしくないから、見せてはいけない。
「……僕は、軍主、だ」
止めたいと、言う事はもう許されない。
引き返せないところまで来てしまったのは、自分の意思でもある。
今このどこにもやり場のない思いを、グレミオを失った悲しみを、誰かにぶつけるのは十六歳の少年としては間違っていない。
シグール=マクドールとしても、間違っていない。
だけど、それは「リーダー」のあるべき姿でも、軍主のあるべき姿でもない。
だから、もう、そんな事はしてはいけない。
今この解放軍を、放り出すわけにはいかない。
グレミオが助けてくれたこの命は、「解放軍軍主」の命なのだから。
「僕は、軍主だ」
迷う事は許されない。
戸惑うことも、嘆く事も、弱音を吐く事だって。
「……大丈夫」
マントをぎゅっと自分の体に巻き付けて、ベッドの上でシグールは呟く。
「大丈夫」
もう、泣かない。
悲しまない。
「平気」
グレミオを失ったことも、それと引き換えに軍主の命が助かったのだから、プラスが多い。
あれは適切な判断で、戦闘力のことを考えれば、グレミオが最も――
――……最も、戦闘力面では、弱かった。
主戦力のビクトールが外れたら、帰路も苦難したはずだ。
――坊ちゃんは信じる道を……
俯いてマントを握り締め、シグールは呟く。
「……グレミオ、僕の信じる道は、皆が側にいる道だった」
父とテッドとグレミオにクレオにパーン。
……アレンやグレンシール、多くの家人や父の部下。
「なのに、一つずつ、なくしていく」
薄々予想はできている、「帝国五大将軍」の父がこの事態を黙って見ているはずがない。
解放軍は力を増し王の勢力を脅かす存在となりつつあり、父は王に忠誠を誓っている。
きっといつかは――それは分かっている。
「テッドも、父さんも」
故郷も。
家も。
「グレミオ、お前も」
誰も失いたくなくて、大切な人も目の前の人も見知らぬ人すらも失いたくなくて。
気が付けば、大事にしていたものを踏み潰す道にいた。
「だけど」
だけど、この血に濡れた道の先が。
「……だから、助けてくれるんだ、みんな」
その先にある希望を見たいから。
先頭を照らし出すのは、シグールだから。
暗闇の中、皆を導く役割を持っているから。
「悲しくない」
自分に言い聞かせるように呟いて、シグールは視線を落とした。
「助けてくれてありがとう」
悲しくない。
涙も流れない。
「軍主を、助けてくれてありがとう、グレミオ」
これで僕は、先へ進める。
***
オデッサの最期は、プレイヤーに色々投げかけた重みがあるモノだと……勝手に思ってます。
わざわざ回収なんてしてくれなくてもいいのビクトールッ(涙
タイトル「喪失」はグレミオの件と坊の"子供らしさ"にひっかけてあります。